長谷川美知子作陶展によせて (会期2005年12月6日〜16日)



私の大好きな陶芸家小山富士夫は“陶は人なり”というのが口癖だったというが、
その陶自身に惑わされたのは、皮肉なことだ。永仁の壷事件のことである。
“陶は人を表す”のは、まさに真実だと私も思うが、
同時に陶はもっと多くのものを表出しているのだろう。つまり 作り手の人格を
表すばかりでなく、その後の使い手の気持ちや時代背景さえも、陶には
染み込んで行く。いづれにせよ名品と呼ばれるような陶は、その吸い込んだ
“気”を数倍して吐き出しているのだろう。ゆえにそういう陶は、目で見て、手に触れれば、
強い“気”を感じるものである。
陶磁研究家小山富士夫は、そんな強い“気”に惑わされたのだろう。
永仁の壷は贋作ではあったが、名品の“気”を強く吐いていたに違いないのだ。

長谷川美知子
さんの作品は、そんな“気”を抱える包容力を持っていると私は思う。
もちろん長谷川さんが作り出すすべての陶が、名品に育つわけではないが、使い手や
時代が注ぎ込む“気”を、受け入れていく“うつわの大きさ”を感じるのだ。
名品を作ろうと気張るのでなく、元気に育つ器量を大事に作陶しているように感じる。
長谷川さんの“うつわ”は、色合や形が、同じシリーズでも、かなり違う。ひとつひとつが個性的。
抑制されていない自由な学校の元気な生徒たち そんなうつわたちなのだ。
いたづらなやつも、ガリ勉なやつも、ガキ大将も、泣き虫もって感じ。
そのなかから、いっぱい愛されて、すごく立派な大人に育つ“うつわ”がきっとある。
きっとあると、大きく期待させるようなとこころが、長谷川“先生”の“うつわの大きさ”なんだと思う。
    

そんな姿勢を、私は以前勘違いしていたように思う。なんとなく“玉石混交”で統一性に欠けるような気がしていたのだ。今ではその、器量の大きさに率直に心が動く。
使い易い日用の食器を、できるだけ手頃な価格で提供しようとする長谷川さんの器量は、
うつわに“元気”を与えている。のびのびと成長していく“うつわ”の未来を予感させるのだ。

独自の技法では色化粧土の仕事が目立つが、私が特に好きなのは、たたらの押し型成形で概ねの形を作り、手びねり風に指先で大胆に形を整えていく作風だ。今回出展の作品には、その技法のいいものが目立つ。手を入れすぎず、手を抜きすぎず、健康的なバランスを保っている。使う人によって、尚のことイキイキとして活気づくかも知れず、もっと気品を得て凛とした名品となるかも知れず。そういう可能性を秘めたうつわたち。こういう言い方に慣れていない方は、誤解してしまうかもしれないので断わっておくが、長谷川さんのうつわが未完成だと言っているのではない。陶芸家から生まれ出たばかりのうつわは、みな押しなべて未完成なのだ。売り手や買い手や、使用者や鑑賞者が育てて、はじめて“うつわ”は完成していく。そういう意味で、長谷川さんのうつわは、たいへん将来有望な少年少女に見えるのである。

その長谷川さんが生み出す“うつわ”は、実に愛すべき子供達に見える。たとえ話で恐縮ですが、えらく家柄の良いツンとしたお嬢様と、優しく元気なOLと、どちらが、多くの人の真の愛を受け易いか。『東京物語』の原節子や、『キューポラのある街』の吉永小百合あたりをイメージしてもいい。また、その先、嫁いだ家と苦労を共にする元気な嫁は、みんなに愛されていっそう立派な嫁となろう。孫ができる頃には、夫亡き後も、相当な貫禄で家を支えて、人は彼女を“名物女将”と呼んだりして・・また、茶陶ファンなら、思い起こしてみてください。高麗の名物茶碗が、もともと朝鮮の名もない陶工が作った庶民の飯碗であったのを。生み出されたとき、作り手が有名かどうかは、その“うつわ”がその後立派に一生を送るかどうかとは、まったく別のこと。本当の名物には、銘などいらないし、本当の茶人は、銘を見ずに茶碗を感じるものだ。長谷川美知子さんのうつわのいくつかが、名品になるかどうかは別としても、多くの人に愛される要素を多分に含むうつわであることは間違いない。その要素とは、まず元気!次に優しさ(包容力)。次に潔さ。次に志し。『野生の証明』の薬師丸ひろ子のような“うつわ” なんて言って、わかってもらえますか? 名も無い“うつわ”だった薬師丸ひろ子は、数年後、澤井信一郎監督の『Wの悲劇』では、実に立派な“名品”となっていた。あの頃、角川映画には、茶碗の銘にとらわれない、真の茶人がいたのでしょう きっと。

    

さて、ちょっと脱線しましたが、惹かれて買った人が、必ずファンになって、毎日のように愛用してしまうのが、長谷川さんの“うつわ”です。親を見れば、子がわかるなんて言いますが、実に熱心に作陶する、真摯なベテランアーチストである長谷川さんの生き方を見れば、嫁いだ後の“うつわ”の幸福が見えるよう。愛されるべくして愛され、それゆえに尚更美しく仕事する“うつわ”なのです。そしてまた、長谷川さんは、アーティスト活動と共に、後進を育てる陶芸教室の仕事も実に熱心。その生き方が、そのまま後進の模範となり教育となってるようです。

そんな姿勢を見るにつけ、やっぱり小山富士夫のあの言葉を思い起こすのです。

 陶は人なり 

一昨年から大病をされて、長谷川さんは、いっそう大きな“人”になられたように思います。
その“陶”もまた、いっそう渋く輝いているように思えます。
長谷川さんにとって、入魂の久々の展示会 ぜひお運びください。

2005年11月          
うつわのみせDEN 田口巌