うつわのみせDENのポリシー

DENとは英語で-奥まった快適な私室(小動物の住む穴)-というような意味です。

ひとが心をこめてつくるものは、神秘的です。
しかし
そういうことに普段なかなか気付くことができません。
そこに心があるのに、日常に忙殺されて見えないのです。
そういう時は、仕事の手を休めて“奥まった快適な私室”でお茶でもどうぞ
というのがDENのコンセプトです。
お気に入りのうつわで飲むお茶がどんなに心をゆたかにさせるか
もっともっと感じてほしいと思います。



DENのゆく道くる道
 -開業8年目をむかえて 2007年1月


 開業当時、目安にしていた年数が5年、10年、30年。
いま 5年目と10年目のまんなかで、ちょっと気持ちを整理したい気分でいる。
10年目に目標の到達点にあるための整理整頓だ。

何を整理するのかと言えば、気持ちの整理だ。
この7年あまり、初心を忘れず夢中にやってきたつもりだが、
いろいろと人並みにわき目もふり、
流行に惑わされもしてきたかもしれないと後悔している。

が、
ここにきてもう一度心を決めた。
何に決めたかというと、“ストレート”に決めたのだ。

昨年の夏 あの灼熱の甲子園で、斉藤祐樹が、田中将大に投げた
最後の一球のように。

自分が一番練習してきたボール
自分が一番自信のあるボール
たとえ打たれたとしても悔いのないボール

それがあの渾身の外角低めのストレート!

斉藤は、最後のバッターが田中とわかってから、
最後の球は、その球に決めていたという。

この場は甲子園でなく、決勝戦でもなく
しがない商いの原野にポツリと寝そべっていたのだが、、
この斉藤の決意に目が覚めたような気がする。

逃げないこと。
目先の変化球に頼らないこと。

うつわのみせDENは、そんなことを決意して
10年目の節目に向かって再スタートしていきたいと思います。

お客様に、
手に汗握るような渾身ストレートお見せしたく、
今年もいっそう精進するつもりです。
よろしくお願い申し上げます。




DENのゆく道くる道 -開業6年目をむかえて2005年1月

まるまる5年が過ぎたことになる。
これからの5年は、第二のステップ。

第一ステップのテーマは、多くのお客様にDENを知っていただくことだった。
そして、出会いをとても大切にしてきたつもり。

これからは、お客様とともに、DENを大事に、
時に厳しく育てていくことか。
赤ちゃんから 幼稚園入園って感じだろうか。

この時期の子育てがたいへんおもしろいように、
DENの経営も一番素敵な頃なのではないでしょうか。

私達が、DENという小動物の生みの親であるのなら、
お客様には、先生やお友達になってほしいと願います。

今年もどうぞよろしくお願いします。




DENのゆく道くる道 -開業5年目をむかえて
都内のいわゆる焼き物ギャラリーに行くことが多い。
興味ある陶芸家の作品を見に行くのだ。
たしかに素晴らしいものが多い。

だが、都内のギャラリーは、
私たちとは志向しているものが、どこか違うと気づかされる。
私たち(妻と私)は、もともと熱狂的な焼き物ファンではなかったし、
今もなお、陶芸そのものへ、どこか冷ややかな目をもっているつもりだ。

つまり、焼き物としての高度な完成度よりも、用のうつわとしての有効度を優先してみる目である。料理や生け花のプロが、焼き物を見る目に近いかもしれない。が、そういったプロとも私たちは微妙に違う。料理人なら、料理が主で、食器が従になろう。生け花だったら、花が主で、花器が従になろう。でも私たちは、うつわを主にも従にも見ない。

私たちが、そもそも焼き物に魅せられていったのは、焼き物そのものの美しさではなく、それに盛られた料理と、その食卓の可憐さだったように思う。

だから、私たちは、どんなに立派な焼き物も、花や料理を生かさないものは、興味をもたない。花や料理の鉄人は、そんな無粋な焼き物も、生かしきるのかもしれないが、我々庶民にはなかなか不可能だ。そう、私たちはいつも、自分たちの食卓を意識しながら、焼き物とかかわってきたような気がする。料亭や割烹のためのうつわも、意識しないではないが、いつも基準には、我が家の食卓があるのだ。いわば、等身大の焼き物趣味といえよう。

等身大の焼き物趣味が、私たちにとっては、いまも正しい道だと感じてる。目の玉が飛び出る金額の茶碗や花器より、日常使う鉢や皿に興味は向く。みみっちいのかもしれないが、性分なのだから、しかたがない。日用のうつわでもあまり高価なものは、心安く使えない気がする。そこそこにいいもので、日々食をしたいが、緊張しながら使ったり、洗ったりしなければいけないうつわは、いかがなものかと思うのだ。

つまり、
中道がいい。

いかに秀逸な作品を作る巨匠といえども、中道を知らない陶芸家はキライ。箱書きの茶碗は何百万円しようがこれはかまわない。有名な陶芸家になればいかしかたない。しかし、そんな有名陶芸家でも、飯碗は、せいぜい庶民の月給の何十分の一くらいの値段で売ってほしい。そういうことができない陶芸家は、私は好きになれない。そうはさせまいとする商人も嫌いだ。

そこそこなものを良しとしなければ、気負いが出てくる。気負いが出れば、作為が見えてきたりするのが常である。そんな高い美意識を振りかざすのは、うんざりするときがある。

民藝運動や李朝趣味に根本的に流れている美意識は、芸術家や陶芸家の美意識ではなく、一陶工や一庶民の美意識なのだと思う。完璧さを求めるのではなく、中道を知った良識ある人々の美意識なのだと思う。

高い美意識と先ほど言ってしまったが、高い美意識とはいったいなんだろう。私はこう思う。古来から美しいとされてきたものの、美しさを知ってる(感動できる)ことではないか。しかしながら、美術館や博物館に残っている美術品のほとんどは、殿様の蔵などにあった超高級品ばかりなのだ。それを紡ぐと、いわば偏った美意識の剣が生まれる。その剣は剣として大変素晴らしい財産であるが、そのままそれを庶民に振りかざせば、非道ではないかと思うのだ。

李朝が好きで、それを突き詰める陶芸家がたくさんいる。それは、それでたいへんすばらしい。だが、自分の作品自体を高級品に押し上げてゆく志向は、間違っているように思う。骨董品が高価になるのはわかるが、李朝陶の写しの現代陶が、あまり高いと、こんにゃろーって思う。美意識の塔が建ってるみたいに思うのだ。

桃山陶にしたってしかりだ。桃山陶はたしかにすごいものである。近代陶の雄たちは、こぞって桃山陶を再現して、偉大な業績を残しはしたが、それでお茶漬けを喰うには、かなり窮屈なものだ。桃山の美意識でもって、現代の生活を切るのもやっぱり無理がある。桃山の陶がなんで今もなお、焼き物の金字塔的存在なのかを考えるに、その当時が一番作り手に元気があったからなんだと思う。おもしろがってバンバン作った。バンバン焼いた。そのなかで、上手で趣があるものを、茶人が好んで愛用した。そういうことなんだと思う。今になって妙に堅苦しくこだわるのは、やめにしよう。今に残る桃山の陶はたしかにすばらしいが、陶だけを見つめてはいけないと思う。作り手の元気を見なくちゃいけないし、時代の元気を感じなければいけないと思う。
 
 作り手の“元気”なくして、桃山陶はありえなかったのだ。元気を忘れた焼き物は、焼き物にあらずだ。縄文土器を見ろい!あの元気が焼き物のルーツなんだ。燃えるような元気なくして、いい焼き物はできない。名品であるべき要素を数え挙げて、ばかにそればかり尊重するのは、もうやめよう。数え挙げるうちに、元気が失せていくから。

 民藝運動なんてのも、見方によっては、あんまり元気がない運動のように思えてならない。工事現場のラジオ体操みたいなもので、上からの運動は、活気がないものだ。3、4人のエリート陶芸家の志は、きっと高いものであったろう。しかし、やっぱりエリート陶芸家の作品は、べらぼうに高価なのだ。そんな高価な作品を売り出してる先生たちの美意識を、一客数銭で挽く陶工は、理解していただろうか?その品物は、まったく別物なのだ。もしかしたら、腕のいい陶工が、先生方の個展に行って、なおさら元気をなくしたかもしれない。

 ほんとうの元気は、庶民のなかから生まれてくるものだと思う。ほんとうに勢いのある、頑丈で、使いやすい焼き物は、もっと自由な土壌から生まれるんだと思う。道三や秀吉がもっていた元気の源は、土根性だ。土のエネルギーが湧き上がるとき、焼き物がまた、一世を風靡するのだろう。

いささか興奮しすぎたが、焼き物とはそんなものだと思うのだ。古い美意識だけにとらわれていたら、元気がなくなると思う。古い美意識を尊重しつつも、新しい元気の出る美意識を創造していくのが、焼き物のゆく道なんだ。そう思うわけなんです。つまりは、それはやっぱり中道です。元気が出る中道を私たちはイキイキいきたいと思うんです。

“このはし渡るべからず”の立て札に、
一休さんは、堂々と橋の真ん中を歩いた。
そんな姿勢が好き。
その橋の向こうに、未来があるんだと思う。
もうすこし具体的に言うのならば、こう。

陶芸家(芸術家))と陶工(職人)の間で仕事してる人が好き。

桃山陶の精神と、縄文土器の情熱と、両方の心をもつうつわが好き。

伝統系現代陶とクラフト系現代陶の両方の美点を持つうつわが好き。

“うつわ”と “食”(飲)の両方を見つめてる人が好き。

エリートの誇りと、庶民のバイタリティーの両方の心をもっていたい。

魂と物質の間を、じっと見つめるのが好き。

“知”と“感動”の間で、いつも揺れ動いていたい。


こんなふうに、
Aに揺れ、Bに揺れしながらも・・・
そこで飯を喰うことに感謝して生きたいものだと思う。



うつわのみせDENは
作り手と使い手の間で、ゆらゆらと揺れながらも、しっかり中道を見つめ、
熱い魂を受け渡すための“うつわ”でありたい と思うのです。



    2004年5月吉日 うつわのみせDEN 店長代理田口巌、店長田口祥子

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