うつわと前方後円墳の秘密 その2.

 

もともと古事記では、日本の国土が、伊耶那岐命(イザナキノミコト)と伊耶那美命(イザナミノミコト)の性交渉によって生み出されたのは特記すべきことである。国土が神様の性交渉で生まれた神話は、世界にもまず稀であるからだ。ここのところを日本の信仰の大きな特徴と見ることができる。この神さま夫婦は、交わって国土をはじめ神々やさまざまなものをお作りになるが、最後に火の神を生んだ時、イザナミは焼けどして死んでしまい、黄泉の国に落ちてしまうのだ。イザナキはイザナミを連戻そうとして、黄泉の国に入るが、イザナミの凄まじい異様にビビって、命からがら戻って来てしまう。それから黄泉の国の汚れを落とすために、イザナキが身体を洗い浄めた時に次々に神様が生まれた。左目を洗った時に生まれた神の名が、天照大御神アマテラスオオミカミ、右目を洗った時に生まれた神が、月読命ツクヨミノミコト、鼻を洗った時に生まれた神が、建速須佐之男命タケハヤスサノオノミコトである。

ここで、普通の人は、疑問に思うはずだ。なぜ身体を洗って禊(みそぎ)する時に、子が生まれるのかって。いままでセックスだったものが、なぜに突然 禊なのか?しかも男神であるイザナキから生まれるの?って。私はこのアタリをこう解釈してます。

浮き世の言葉で言うなれば『男の浮気心』と『女の妬み』です。結婚当初は誰も、みなアツアツで一生懸命子作りに励むものです。しかしながら、妻が子をたくさん生んで時がたてば、当初の美しさと初々しさを失います。そんな時ムクムクと頭ももたげるのが、『男の浮気心』であります。それを知った妻は怒り狂います。怒り狂った女ほど醜い物はありません。男の心は、女から遠く離れてしまいます。その結果、浮気相手に子が出来ます。それがおそらくは、日本という家庭のはじまりなのです。でも男はずるいもんだから、世間に苦しい言い訳をするわけです。

『あれは禊なんだよ』って。

それから一見何ごともないように、イザナキ家は栄えていくわけですが、それは逃げることのできない呪縛をかかえながらなわけです。それこそが『女の妬み』。つまりは黄泉の国に落ちた『イザナミのタタリ』なのです。

このタタリは、イザナキの鼻から生まれたという建速須佐之男命タケハヤスサノオノミコトに引き継がれ、その子孫である大国主神にまた引き継がれるタタリなのだと私は思っている。そしてイザナキの正当な子孫が隆盛となるに従って、それに対する不信不満分子が、タタリの中心地である出雲に集中していくのである。大国主神の国づくりの神話が有名であるように、もともと国づくりの中心は出雲地域にあったと考えられます。それが、北九州と畿内という大きな平野を結ぶ瀬戸内海ルートが栄えて、しだいに出雲が衰えていったに違いありません。しかしながら、当時出雲は、政治と経済には陰りが出て来たものの、精神的宗教的な立場から見れば、明確な聖地であったと思われます。それで畿内に権力を掌握しつつある大和政権は、九州からわざわざ、天照大御神アマテラスオオミカミの子孫を呼び寄せた。それが神武天皇と考えられるのです。しかもその時、巧妙な交換条件を、出雲と大和政権はかわすのです。政治経済担当は大和。宗教関係はすべて出雲に任せる。という契約だと思われるのです。このバランスが保たれたのが、前方後円墳の時代と考えられないでしょうか。その証拠に九州から東北にまで広がった前方後円墳が、出雲地方には存在しないのです。私には、このことがこの頃の古代人の宗教観を表しているように思えます。つまりそれは、『タタリ』への恐怖なのです。本流から排除され、無念の死を遂げたものの怨念が、病や凶作をもたらすという信仰です。タタリを取り除くことが、健康と豊作につながるわけです。では、タタリを除くには、どうしたらよいのか。それは、怒り狂った魂を鎮めること-鎮魂の儀式です。私はこの鎮魂の儀式、しいては豊穣の儀式の舞台としての前方後円墳を見たいわけなんです。実際、権力者の葬儀ではあるわけですが、民衆にとっては、タタリばらいのお祭りだったのではなかろうか。そして権力側にとっても、天降した神が祟られることなく、無事にまた天へともどられることを願う(大嘗祭と匹敵する)神事だった。その神事は、出雲と関係の深い豪族が取り仕切ったに違い無い。具体的にいうならば、その豪族とは物部氏だったろう。物部氏は、その名のごとく、神の言葉を述べる一族。神事一切を取仕切り、大和の影の権力者だったのだ。その出雲の呪術力を継承する物部氏による一大イベント。それが天皇の死後、前方後円墳で行われるお祭りであったのではなかろうか。それは『タタリばらい』と『豊穣祈願』を願う民衆を強く惹き付けたものであった。単に権力者からの強制労働であれば、あのように巨大なものができるはずがないからだ。その儀式が強く民衆の信仰と合致していたからこそ、日本全土にひろく普及したのだ。そして、そういう事情ゆえに、タタリの震源地である出雲には、前方後円墳は存在しないのである。

 それでは、また前方後円墳の形にもどって考えてみよう。前章では土師部がデザイン力を発揮したのではなかろうか?と書いた。それではそんなデザイン力が発生する以前は、どうであったろうか。

 いうまでもなくそれは、円柱であったに違い無い。日本の神話や天皇家や伊勢神宮の儀式には、すべて中心に巨大な柱があるのを想起してほしい。“巨大な柱に神は降り立つ”というのが、天神の面目なのだ。

しかし、日本の神様は、天神ばかりではない。海神(わだつみ)や国津神だっている。海神(わだつみ)は、天津神の御柱に対して、どのような形を象徴的に崇めていたかといえば、“壺”のような形、あるいは筒のような形であるように思われる。

 

 今でも大阪で一番初詣で客が多いのは、住吉神社なのだが、この神社はまさに海神を奉った神社だ。この神様たちの名前がまさに筒づくし。その筒男三神は、底筒男命(ソコツツノオノミコト)、中筒男命(ナカツツオノミコト)、表筒男命(ウワツツオノミコト)という名だ。ほかに例をあげることもなく、読者も海神の象徴が筒あるいは壺のようなものであったのは、ご賛同いただけると思う。

 が、ここで飛躍して、天神の“柱”は男性器の、海神の“筒”は女性器の隠語的形象だと言ったら、みんなで私に石を投げるのだろうか。私にはそうとしか思えない。そして前方後円墳の形こそ、その“柱”と“筒”の調和した形にしか思えない。さらに補足するなら、その巨大な男性器の陰影は、黄泉の国のイザナミに捧げられた供物の意味合いが強いと言えよう。つまりそれは、日本に最初に生まれたイザナミのタタリ、そしてそれを育んだ出雲のタタリからの回避を意味したでしょう。

したがって、そこで行われたであろう式祭は、かなりエロチックで官能的お祭りだったと思われる。豊穣を祈って、男女の交わりを田に捧げるようなお祭りは、枚挙にいとまないからだ。後の世にはもっと形式化され“田楽”と呼ばれるものになっていったかも知れないが、当時のそれはきっと民衆参加型の情熱的なお祭りであったろうと思われる。

 

 

左の筒(女性器)の中に、右の棒(男性器)を差し入れる。全体の半分は大地に埋もれ、男性器型の半分だけ、が大地から突出している。それは、まるで、陶芸技法の鋳込み成形をした時、牝型の片方を外したような形に見えないでしょか。それが前方後円墳のかたちだと考えられないでしょうか。

すなわち そこに隠された意味はこうである。(大和政権いわく)

これを大和政権のシンボルとするぞい。それは我々の子孫の天神と、天神以外の神々(ヤオヨロズの神々=特に海神=特に出雲勢力)との調和協調を表す。かつ、男女の秘め事(愛)を源とする家族の絆を尊ぶ精神に他ならない。それが日本の国の成り立ちのはじまりだからである。そして、それこそが、我が国と我が民に 健康と豊穣を約束するものである。

(ほんとのことを言っちゃうと、我々の祖先の天照大御神はイザナミの子じゃないのよね。つまり妾腹なわけなんです。建速須佐之男命タケハヤスサノオノミコトにあっては、ほんとは三号さんの子なわけよ。つまり分家なわけなんよ。でもね。本家も妾腹も分家も、ケンカしあわないで、仲良くやっていきましょうよ。みんなその時は、真実の愛だったはずなんだから。みんなケンカばかりしてると、経済も政治も宗教もぐちゃぐちゃになっちゃうから、ここはとりあえず、仮想本家の我々をたてて、みんな仲良くやってくれよ)

註)大和政権がつくったとされる日本書紀では、天照大御神は、イザナキノミコトとイザナミノミコトの子であるとしている。この古事記と日本書紀の違いは、真実を被い隠す大和政権の操作がある事を示していると考えられる。つまり、真実とは、天照大御神は妾腹っていう事です。

ってな感じに思うのです。

 

 このように想像を膨らませていくと、前方後円墳が権力の象徴には見えなくなっていく。

強制労働によって作られた墳墓というものではなく、古代の情熱的なお祭りが行われた大きな舞台と見えて来る。その儀式や墳墓の形体が、男女の原初的な情愛から生まれでたものであることを私は祈りたいと思う。

 第二次世界大戦後、天皇制が事実上崩壊して、『家』という概念が消失し、今や家庭と呼ばれるものの絆さえ希薄になり、亡国の時代だからこそ、想像の翼をひろげて、日本の神話に隠された古代人の情熱と戯れてみてはどうだろうか。

それは美しい古陶器の破片が、陶工たちの情熱によって、現在に見事に蘇った事実に似て、情熱こそが創造だと教えてくれる。

 余談ではあるが、前方後円墳をつくった土師部は、のちに菅原の姓を得て、菅原道真を輩出する。菅原道真は、最高官職であったが、太宰府に流され不遇の死をとげる。そうして結局、タタリ神となるのであるが、現在では、ご存知の通り、天神様と呼ばれて大変人気がり、御利益のある神様となるのである。タタリ神が、実に明るい民の神となりうるのである。そういう人情味が日本の風土にある。日本の神様は、お怒りになるばかりではなく、お泣きにもなるし、お笑いもする。

 

もうひとつ余談ではありますが、焼き物(土器=土師器)は、太古から日本の神事、あるいは呪術に使用されてきたようです。注目したいのは、そこにも“柱”と“筒”のモチーフがあることです。初代天皇である神武が、大和に入る直前の夢が日本書紀に次のように記述されています。

 

 

夢に天神有りて訓へて曰はく、「天香山の社の中の土を取りて、天平瓮(あめのひらか)八十枚を造り、并せて厳瓮(いつへ)を造りて、天神地祇を敬祭り、亦厳呪詛(いつのかしり)をせよ。如此せば虜自づからに平伏ひなむ」とのたまふ。

天平瓮(あめのひらか)八十枚とは、何か?厳瓮(いつへ)とは ?そしてその呪詛とは?

まさにこれが“柱”と“筒”のモチーフだと思うのです。天平瓮(あめのひらか)を、80枚重ねて積み上げる儀式です。厚さ2センチほどの陶板(土器?)を、80枚重ねたら身の丈ほどになります。厳瓮(いつへ)とは、逆に壺のような陶器(土器?)に違いありません。つまり身の丈程の土器の塔と大きめ壺を想像してみてください。それはやっぱり、“柱”と“筒”にはなりませんか。この神事は、驚くべきことに、いまも天皇家や住吉大社に行われているそうです。それでやっぱり納得してしまうわけです。“柱”と“筒”が天神と海神の象徴であることを・・・その後それらの神事は、神との共食の儀となるのですが、この儀式もまた、別の見方をすれば、天神とそれ以外の神々(海神や国津神)との同盟関係の誓いの盃のようにも、思える訳なんです。つまり、この当時の勢力争いの背景には、宗教戦争の色合いも多分にあったと思う訳ですが、それを建国当初の大和朝廷は、“まあまあ、いろいろありますが、ここはおらを立ててくんろ。そのかわり、あんたたちの神様もさーないがしろにゃせんからさー”って感じで納めたのではないかと思うのです。これが本当のことだとしたら、現代世界においても多発する宗教戦争と対比して、日本民族とその統治者がいかに宗教的に柔和であったかが想像出来ます。それは多神教VS一神教信仰という枠組みだけでは、説明できないものがあります。『和をもって貴しとなす』としたのは聖徳太子ということになっていますが、それは大陸文化流入以前にも日本に長く培われてきたものであったように思われるのです。その信仰的背景にはタタリというマイナス志向もたしかに存在したわけですが、日本民族にはそれをプラス志向に転換する創造力もバイタリティーも持ち合わせていたことが、誇らしいです。

そんな経緯がいくぶん陶芸の歴史にも似ています。近代日本に磁器が入ってきてから久しく、日本の技術力であれば磁器の生産力が陶器の生産力を凌駕するようなことがあってもおかしくなかった。現に世界の文明国は、きれいで壊れにくい磁器を皆盛んに作った。けれど日本はそうはならなかった。きれいな均一の土を溺愛しなかったのだ。どちらかといえば、日本の国土に溢れるふつうの土を好んだのだ。むかしむかし神様たちが、棒みたいもんで、ぐりぐりいい加減に掻き回して、つくった国の土が好きなのだ。香具山の山頂の土など、焼き物にしたら悲惨なものであったろう。それでも、そのぐずぐずの焼き物に神秘的な美を見ていたに違いないのだ。

 弥生時代の終わり頃、やおよろずの神々から、天神(たぶん外来?)だけを選ばなかった民族性。そんな民族性が、ずっと今日に至るまで育まれてきた。のちの仏教の時も、キリスト教の時も民衆レベルでは、非常に暖かく迎えたことが想像できる。が、それでも祖先が育んだ真と善と美を見る目は、しっかりと保持し続けた。そういう穏やかで、まじめな民族性をとても誇らし気に思う。

日本では漢字だけが文字にはならなかった。
土着の神々さんも、天神さんも、海神さんも、釈迦さんも、キリストさんも、老子さんも、孔子さんもみな、居場所を見つけて、けっこう仲良くすまわれた。
そんな国土と民族性を愛さない輩が増えて、私は悲しい。
そういう輩は、自分の家族だけは、しっかりと愛せるのだろうか?

 日本人は本音を隠すところがある。それが神の偶像崇拝禁止であり、前方後円墳の隠れた意味なのかもしれない。しかし、真実はいつだって きれいに隠されていると私は思うのです。

DEN店長代理 田口巌

 大事なことはね、目に見えないんだよ   サンテグジュベリ作“星の王子様”の言葉より

★なお、この文章は、すっかり御承知だと思うが、学術的な信憑性はまったくありません。念のため

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