後藤義国という犀の角  良寛と遊ぶ 平成17年1月

 あらゆる生き物に対して暴力を加えることなく、
 あらゆる生き物のいずれをも悩ますことなく、また子を欲する事なかれ。
 いわんや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め




この釈迦の言葉を聞くと、陶芸家 後藤義国さんを思う。
もちろん、後藤さんには美しい奥さんも、かわいい息子もいるのだから、
独りで歩いてるわけではない。
また、モダンで先進的な後藤さんに、こんな古臭い言葉を押し付けるのは、
後藤さん本人も、心外であろう。

だが、彼の生み出すやきものを見ると、やはり私は“犀の角”を思い起こす。

世の中に、やきものにできる土は数知れず、
釉薬もまた、釉ならざるものがないといっても過言でない。
色は赤、青、緑、黄、紫、橙、群青、紺碧、真紅、茶・・・
紋様や形、技法に関してはいうまでもなく陶芸家の数十倍ある。
陶芸教室でさえ、1年も通えば、土や釉にいろいろ混ぜてみたくなるものだ。

そんな刺激的な陶芸大通りのど真ん中を、
わき目もふらずに、犀の角のようにただ独り歩む。
それが後藤義国という陶芸家だ。

後藤作品最初の出会いは、5年以上前にさかのぼる。
益子の民藝店での流し掛け作品↓だった。
  

多くの類似する作品の中にあっても
“胎土と化粧土の葛藤”に対する捕らえ方が、光っていたのだと思う。

“胎土と化粧土の葛藤”から生まれる技法にも、いろんな流行がある。
貫入(胎土と化粧土の収縮率の違いから生まれる仔細なヒビ)や
御本手(化粧土のピンホールから水分が入って変化した焼き味)も、そう。
また、原土に近い荒い胎土を使って、胎土の鉄分をことさらに強調したり、化粧土の縮れた感じを出したりする手法も流行していると思う。
(実際私はそういう粉引も好きだ)

しかし、後藤さんは、まったく別の道を選んできた。
昨今の陶芸家が、その負の味付けに翻弄されている間、
彼は自分の信じた道を進んだのだ。

白への憧れが、彼をいざなったとも言えるかもしれない。
日本の焼き物に大きな影響をあたえた、高麗や李朝の白磁や紛青(粉引)は、
心身ともに清浄な白色への憧れがまずありきで、
強い貫入や御本手のような負の味付けは、以後の日本の茶陶の影響と言えるのではないだろうか。我々は、茶陶にあまりに影響されすぎて、茶陶以前の純粋な焼き物への思いを忘れてしまっているかもしれない。

そんなことを後藤さんは、意識して作陶してきたのだろうか。
ただ単に純白ということでもなく、ことさらに詫び寂び系の味付けもせず、
白をいかに、惹きたてて美しく見せるか それを一番に見据えていたと思う。
それゆえ、試行錯誤の過程で、“後藤の白”は磨かれていった。
その過程の中に、朝鮮陶がたどった道程
“流し掛け”や“三島手”もあったのではなかろうか。
あるいは↓の作品のような、大胆な試みもあったが、

それはしだいに、よりシンプルなものへと移行してゆく。
上の作品のような、流し掛けや、三島手、刷毛目や、鉄の文の作品は
少なくなっていき、ふたつのシンプルなタイプに収斂していく。

それが、指紋としのぎの作品だ。

化粧土した後に指先で化粧土を押さえて、
化粧土の微妙なゆらぎを景色とする手法だ。

粉引がたどってきた“掻き落とし”“三島手”“刷毛目”という
よりシンプルな陰影を出す技法の終着駅に、この手法があるように思う。
ろくろ目は、作家性を感じさせるもっとも安易にして有効なものだが、
そのろくろ目は最低限にして(ろくろ目が繊細になっているのが一目瞭然)、
そっと指跡を残す行為は、かつての優れた陶工が、真に線対称の器物を、
あえて少しだけゆがめる行為に似ている。
それは、個性を滅してつくりあげる陶工が、最後の最後で、
おのれ独自の美意識を、隠れた印として残すことだ。
いわば秘した自己主張なのだ。

もうひとつは、しのぎ作品。

これは、白いうつわが、見せる最大限の自己主張。
山の部分は、化粧土が薄くなり、土をのほのかに感じさせ、
ボディの繊細な曲線を実にみごとに強調している。
その凹凸が生む陰影は、光のキャンバスとなり、
うつわは、そこに凛としてあり、黙して饒舌だ。

この手法は、とりわけ技術がいる。手間もかかる。
歩留まりもあまり良くないだろう。
それなのに、とてもに安価に出荷してくれていると思う。
したがってユーザーにも手ごろに提供できる。
この姿勢には、にわかに感動する。
世に陶芸家は星の数だけいるものの、陶工と呼べる芸術家は少ない。
僧が数多くいても、真の行者が少ないと同じである。

わが師良寛の漢詩にこんなのがある。
三十年も以前の修行中の頃を偲んで詠んだ詩である。
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憶在圓通時  恒歎吾道孤

運柴懐寵公  踏碓思老廬

入室非敢後  朝参常先徒

一自従散席  悠々三十年

山海隔中州  消息無人傅

感旧意有涙  寄之水潺湲

【口語訳】

円通寺で修行していた時を思いかえすと、
いつも自分の孤独を嘆いていた。
柴を運ぶ時は寵公(柴を運んでいたときに悟りを得た中国の僧)を思い、碓(うす)で米をつく時は老廬(米つきをしながら大成した中国の僧)のことを考えた。師の部屋へ入る時も、朝夕の座禅の時も、他の人に後れないよう心がけた。しかし円通寺を離れてから、はるかに三十年が過ぎた。今は山や海に隔てられ、円通寺の様子を伝える人はいない。当時の恩を思って、とうとう涙した。水がとめどもなく流れるように、涙があふれ出る。

この詩を詠んだ頃、良寛は60歳を越えていたろう。
が、三十年前よりはるかに、卓越した境地に良寛はいる。
多くの修行僧や師に囲まれながらも、当時は孤独を嘆いていた。
逆に60歳を超えた良寛は、むしろ孤独を愛する境地にいたであろう。

ここにも、犀の角のようにただ独り歩んできた老僧が確かにいる。
寵公は柴を運んでいたときに悟りを得たと伝わる。
老廬は米つきをしながら大成したという。
ろくろしながら、あるいは
うつわにしのぎを入れながら、悟る者もいよう。
その人も、寵公や老廬のように、いつか伝説になるかもしれない。
義公とか老義とか呼ばれたりして・・・

座禅や読経だけが修業じゃないように
桃山陶だけが、陶芸ではない。
一土、二焼き、三細工などと誰が言ったか!
高みに至る道のりは、さまざまだ。
問題は歩き続けること。

えせ茶人やえせ数寄者に何といわれようと、
万民に愛される良質のうつわを、わき目もふらず、
一心不乱に作る陶芸家を私は尊敬する。

そんな後藤さんに、私は深々頭をさげる。

と、

私の目の前を、でっけぇー犀の角が、悠々と通り過ぎてゆく。

その犀の角に、かすか
人の指跡と、しのぎ跡を見たのは、私だけだろうか。



奥様(レジーナイワキリさん)の作品の前 ご自宅で
ひとりいく犀よ
孤独を嘆くな
君の後を 子らがみな
行列して ついて行く
だから君の前や横に
人がいないことを嘆くな
君は ひとり 尊い
 
ps.後藤さんはたぶん嘆いていない・・・
  それに勝手にサイ呼ばわりすんなって怒ってるかも


 平成17年1月 
うつわのみせ店長代理田口巌

 
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