注ぐうつわと下町天使

“注ぐ”陶展 というのを企画した。そのプレヴューページにも書いたが、注ぐという現象は、宇宙の真理にかかわる重大事だと私は思う。

無限に続く知的(霊的)階層の頂点から、愛と知とが下へ下へと降り注いでいる…たぶん。きっと。そうなんだと思う。それが宇宙に渦巻く自然の流れなんだと。しかも、ただ降るのではなくて、その恩恵がピンポイントに与えられるがゆえに、“注ぐ”という言葉が実にふさわしい。

天使たちは、なぜか、その愛と知を求める者にだけ、それを注ぎ込むから。
一番上の大神様はともかく、私たちにめがけて注いでくれる天使たちは結構人間臭いところがある。

私が思うには、天使に一番近い人間は、柴又のとらさんとか、亀有のりょうちゃんとか 下町系のヤンチャ者だ。まあ、ヤツラにかかっちゃ身を捨てても注ぎこむ。
けど、けっこうケチでもあり、笑っちゃうこともしょちゅうなのだ。

天使にとって我々は実に愛らしいおバカさんに見えるのだろうけど、こちらから天使さんたちを見上げると、そりゃ結構笑えるような気がする。

ヴィムベンダースという天才映画監督が、20年くらい前に『ベルリン天使の詩』という傑作を作ったが、その映画に出てくる天使も実に知的ではあるが、それゆえ一層滑稽さを醸し出していたのが思い出される。

そう、愛は注がれるだけでなく、上にもささやかに与えられているのだ。雨が蒸発して天に上がるように。子犬が飼い主を癒すように。天使たちは我々に愛と知を注ぐことによって、自ら成長しているのに違いない。

それでも、やはり上から下へと注がれる量の比でない。
たとえば愛玩動物を大事に育てる真っ当な人間は、彼等から愛をもらおうとして飼うのではなく、愛を注ぐこむために飼うのだ。天使も同じよ。愛とは想像以上に、押し売り的。押し売り的に一方的に注ぎ込まれる愛は、小さい弱い者にとって、受け止められないかもしれないけど、そんな簡単なこともできないおバカさんな人間を見て、天使はなおさら愛らしく思っちゃうのだ。

親の愛とも似て、だからもって、どんどん注がれちゃうのが自然の摂理のようだ。

私は以前から、うつわを『気』が集まるところと考えてきたが、注ぐということは、そのうつわをある意志をもって傾けることであると言えるのではないだろうか。

宇宙にその意志がなければ、『気』が停滞して濁ってしまうだろう。その意志があるから宇宙は健全なのだ。愛に満ちているのだ。そして、その大きな意志(注ぐ使命)があるからこそ、天使さんたちは暇を持て余さずにすむのである。

昔、植木等のCMで『なんであるアイデアル!』って傘のCMがあった。けだしあれは名言だ。降り注ぐ雨は天からの愛のごとしだ。

しかも雨は下から上には降らない。愛も同じ。

では、傘は愛らしいか。否、傘はその雨粒を避けるために機能してるにすぎないのだから。したがって私にとって傘は愛らしいとは思えないようで、すぐ電車とかに忘れてくる。これがしょっちゅうだから愛着がないのは間違いない。だ、だ、だが、しかし、映画『雨に唄えば』みたいな場合には、ぐっと愛らしいものになる。傘はそこでは、雨を避けるものでなく、雨と戯れるために存在しているのだから!(そういえば世の子供たちも、傘をそういうふうに使うのが大好きで、おかげですぐに傘は壊れてしまうのだ…)


実に、注ぐことや、注がれることを楽しむことは、知的遊戯である。
天使のものまねか。あるいは茶道の点前!わびだ!さびかぁ!?

 利休の教えで有名な『和敬静寂』ってぇ〜のがある。
静寂とは悟りの境地のことだろう。『和』とは“和ごむ”ことで、“敬”はもちろん相手を敬うことかぁ。

天使ともに和ごみ、かつ天使を敬うこころもちに、天使さんたちとの正しい付き合い方のヒントがあるような…利休もうまいことを言ったもんだ。

 さてさて、陶の注ぐうつわたちは、実に人の顔やカラダに見えてきて、なんとも愛らしいではないか。(傘とは大違い!)なぜだろう。それは、注ぐ陶たちが、とらさん天使だったり、りょうちゃん天使だからなのだ、きっと。

神聖にして滑稽-注ぐうつわ。おれは好き。そんな天使たちと、和ごみ、また敬い、酒注ぎ交わしたいものだ。ウぃ〜っと ひっく。            (den)

 

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