良寛と遊ぶ   2004年3月29日のこと -2- 

古都ぶら
店先のウインドウに、京都の底力を見る

なにせ時間のない旅なのだ。
田村森さんの家から出ると、
すぐに、長女のお友達に会いに行く。
長女紗帆が、幼稚園のとき一番仲良かった女の子。都合でご両親が実家の京都に戻られて、家業の京焼中心の画廊を継いでいる。いわば同業者なのだ。

京都国立近代美術館のそばの、よいロケーションにお店があるのだが、お父さんが忙しいなか、私たちを五条坂付近まで車で案内してくれた。
清水寺の桜は、三分咲きってところか。天気よく、花よく、実に気分がいい。

しかし、この日、明け方に犯したスピード違反を私はまだ知らないでいる。この頃には、きっと高速オービスから警察に写真がまわされていたことだろう。知らぬが仏っていうのは、万事に摂理だ。この事実をこのとき知っていたのなら、この日はこんなに楽しくなかっただろう。
京都の店先のウインドウは、東京のそれにくらべて、本物がレイアウトしてあるように思う。

もちろん大福も本物だが、五角形の辰砂の皿も、河井寛次郎を思わせる本格的な陶。東京ではあまりないレイアウトだと思う。東京ならダミーでもっと、お洒落に飾ることだろう。
同じお店のものだが、これもまた
本格的な陶器に入っている。
毎日取り替えるおはぎといっしょに、
うつわも変えるのだろうか?
もし、そうだとしたら、尚更すごい。

本物の陶器が、菓子が極上であることを証明している。ほんとにうまそうだ。
東京なら、羊羹も栗もレプリカを使うところ。
きっちりとレイアウトしてる。
清水寺から、ちゃわん坂に降りるとすぐ、
近藤雄三記念館がある。
絵付けで人間国宝にまでなった人だ。

子供づれで、先をいそぐので、涙を呑んで入場しなかったが、ウインドウごしに偉業の片鱗を感じ取るべく、ウインドウに顔を押し付けた。
この近藤雄三記念館
もちろん入場料を普通にとる。
一般500円、学生400円、小人300円。
なのだが、こうして道から除き見ることができるのが、うれしいではないか。
ウインドウ越しに見るだけでも、背筋が震えるほどの技を感じた。
一瞬に絵付けの世界観が広がった気がした。
京都らしい路地。
新しく作為的に、作りこんだ路地ではあるが、三年坂にあるから、まあ許せる。
これが原宿にあったら許せない。

こんな路地は、
ヤンキーな小娘に、水をまかれたくない。
これは、たしか『ねねの道』の道沿いにあったウインドウ。

民芸調の色合いだが、ポップな形状がいい花入れ。こんな形ももしかしたら、伝統的な形なのかって思わせるのが京都。
かなりこれは、個人的にお気に入りです。重心が重くて下にあるから、頭の重い花も、バランスする。
あーこれどっかで見たことある〜!!
って感じだけど、動物たちの表情やゴスの濃淡が好感。値段によってはほしくなるタイプの作品。絵付けの磁器の値踏みはあまり得意でないが、やっぱり好き!って思う気持ちを大事にしたい。
これもいいじゃん。
どこにでもありそうだけど、
まじめによく作ってある。

マメの緑と赤絵が、合ってると思う。
職人が生きる町でもあるが、
同時に職人を殺す町でもありそう。
稚拙は、象徴の母。
なんだかよくわからないけど、惹かれる。
あるいは、知らぬが仏
量産品なのか、作家ものなのか
微妙すぎて私にはわからない?
こういう微妙さを目の当たりにすると、
なんだか、うれしい。

これも知らぬが仏の仲間
“ちりめんじゃこ”なのだが、
こんなにてんこ盛りにするのは、
売り手の自信の表れと見る。

この京都らしいうつわも、合ってると思う。
たしかに、うまそうに見える。

唐草模様とちりめんじゃこは、
相似関係か?
これ、汐吹き塩昆布だったか?
これもこんなに積み重ねるのは、
やっぱり自信のあらわれか?

自己顕示欲の塔と、
職人かたぎが積み上げる自尊心の塔は、
紙一重なのかも。
それを見分けるのは、己の感性だけ。
うつわの網紋様と、昆布はロジック的にもマッチしてるように思う。

ちゃわん坂の途中、
陶芸家猪飼祐一さんのお店がある。
美人の奥さんが、迎えてくれた。
私の大好きな作家さんで、
東京での個展で3.4点買い物もしてる。
いつかDENでも紹介したいと思ってる。
ちゃわん坂に行かれたら、おすすめです。
おきまり的な絵づらだが、
やっぱり情感(旅情)を刺激する。
くるまひきも、鎌倉あたりに比べて
職人って感じ。
流行ではないってことが重要だよなって思う。
この狛犬は幕末以降のつくりなのだろう。
ほかの伝統的風景とは少し違う。
私的には、素敵だと思う。

美とは、ある意味意表を突くことだ。
同じものが、背景で違う印象を生む。
この摂理を、私は
世阿弥の『風姿花伝』と
宮本武蔵の『五輪書』から教えられた。

時代の変換点にふたりは、京都に何を見たのだろう。
この狛犬は、霊山護国神社のものだと思う。
維新の志士たちが祭られている。
いわば、明治の靖国みたいなものか
京都はやっぱり不思議なところ。
また、美的啓示に溢れたところ。

みやげ屋にぶら下がっていたものだが、
右の面がほしかった。

能の定番の面なのか?みやげ物屋に並んでるものにしては、出来すぎてる。
これは、ほんとの骨董。
亀に耳があるのは、
龍のイメージをしてか?

爬虫類は、哺乳類的に表現することで、
異化作用が働き、美的素養が生まれる?

これも骨董。
逆に哺乳類は、爬虫類的に表現すると、異化作用が働く。そこらに存在しない、特別な存在となるようだ。

美とはある意味、
グロテスクなものなのかもしれない。
どうやら、
空手と茶道が
同じ教場で行われてるらしい。
祇園なら、いいんじゃないだろうか。

言われてみれば、同じ心を共有する芸かも。
祇園だけに、お姐さんたちの芸も教えてたりしそう。

こういう乾物のディスプレイ箱も見なくなりました。とっても懐かしい感じです。そもそも、昔はどこにでもあった乾物屋さんっていったいどこに行ったのでしょう?
同じく、
升の量りってのも、見ないよな最近。
見よ!この年季の入った升の色!
これは、ウインドウでなく、しっかり店内の奥で拝見させてもらったものです。
人間国宝中川清司さんの貴重な作品の数々です。
 作品に近づくと
さすがに、鳥肌が立ちます。
これも、先に紹介した、
長女の友達のおうちが、やってるお店です。
画廊おかざきと言います。
人間国宝中川清司さんのことも、
このHPでわかります。
http://www.okazakinet.com/index.html
ご主人の情熱的な解説で、私もこれらの作品にすっかり魅了されてしまいました。

これなんかは、とってもお家に持って帰りたくなった中川清司さんの逸品です。
仕事柄、日常使えるものに特に
興味が沸くのです。
酒樽ミニチュアのような酒器です。
木の香りを含んだ極上の酒が
かならず飲めそうです。

手に取ると、すごいものが伝わってきます。
興味のある方は、是非『おかざき』にお問い合わせください。
ちりめんのお店のウインドウ。
蓮の穴にちりめんの玉をつっこんである。
おもしろくは、あるが、美的ではない。
あたりまえのことであるが、
作為があんまりミエミエになると、
美から遠ざかるようだ。
一方、
このウインドウは
何かそそられるものがある。
まず、この市松のタイルがいい。
なぜか むやみに
石をいっぱい飾ってるのだが、
ディズニーのキャラクターもいる。
全体に漠としてる。
ぼんやり 見れば、ガラクタだ。
かといって目を凝らして見ても
やっぱりガラクタだ。
しかし、なにか独特な雰囲気がある。
少なくとも
ガラクタをしっかり飾ろうとする
意思(石?)がある?
あるいはシュールだ。

★京都ウインドウ大賞は、
 このウインドウにしました。ぱちぱち
*
ここは、お国(川崎)からなら、およそ100里くらいか?
さて、
良寛も、もちろん京都に来たことがある。
投身自殺した父の法要のためである。

 長く修業を重ねた円通寺を出て、諸国行脚の旅に出てたのが34歳のころ。
4年に及ぶその旅にも疲れ果てた頃、歌人だった良寛の父以南が、
京都の桂川に投身自殺したのを知らされたのだ。
故に、良寛にとっては、京都は悲しいところであったに違いない。
その法要が終わると、諸国行脚の旅を終えて、
郷里にもどることになったことが、良寛の悲しみを証明している。

父の自殺が、良寛に迫ったものとは、何ぞ。
良寛は、父が投身したという川の流れを見つめて、
何を決意し、何を悟ったのか
いいや、何も決意することなく、何も悟らず、
ただただ故郷に帰りたいって思ったのだろうと思う。

京都はたしかに、趣味人の町であるのだが、
それだけに悲哀を秘めた町でもある。
良寛にとって、京都は“父の不在”に満たされた町だったろう。
そして我々現代日本人にとっては、“天皇の不在”に満たされた町とも言える。
もしかしたらそれは、道をうしなった国家を象徴する町でもある。
“観光地”=いまや実質のない町 表象の町 それゆえなおさら美しい町
それが京都。

ぜったい行きたいと思っていた河井寛次郎記念館
究極的な疲労感のために、忘れてしまってついに行けなかった。
人は忘れることにより、救われるもの。忘れなったら、是が非でも行って
ダウンしていたかもしれない。忘れる力をコンピューターがもったら、
人の愛も理解できるかもしれない。
いつの日か、ここに天皇が何百年もいたことも忘れ去られるのだろう。

ここで紹介できずに私の目の前を通り過ぎていった何百ものウインドウ!!それを回想するまもなく、私はこの夜、たった5秒で、死んだように寝ました。
明日は越前へ!

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