良寛と遊ぶ-2002/2/20

ブッシュ大統領がやってきた。

大統領の演説は、とてもすばらしい内容だった。

特に、日本が革命でなく維新で近代化した歴史を賞賛し、福沢諭吉がコンペティションを“競争”と訳して日本語を豊かにしたという件は、うまいと思った。競争は改革を進める原動力だと、明治維新を引き合い出して日本経済の再生を鼓舞したわけだ。

平成の維新を!とアメリカ大統領から励まされたわけである。

だが、まてよ。果たして競争は原動力なのだろうか。

 

 

 

ブッシュ大統領は演説の天才。
半世紀前にも演説の天才がいたが、
別物であることを心から願う。

-以下に良寛の漢詩を記す-

 

仙桂和尚は真の道者

黙して作し 言は朴なるの客

三十年 国仙の会にあって

禅に参ぜず 経を読まず

宗文の一句だに道わず

園菜を作って 大衆に供養す

まさにわれ これを見るべくして 見ず

これに遇うべくして 遇わず

ああ 今これに放わんとするも得べからず

仙桂和尚は 真の道者

(右に口語訳を記す)

 

仙桂和尚こそ真の仏の道を行く者。

寡黙に行い、言葉を飾らない人だった。

三十年あまり国仙和尚の教えをうけても

参禅もせず、お経も読まず、

宗文も一言も、口にしなかった。

ただ畑を耕して、皆に食べさせていた。

かつて私は仙桂和尚をよくよく見るべきだったのに、見ていなかった。

本当の意味で、出会うべきだったのに、それが出来なかった。

ああ、いま仙桂和尚に教えを乞うとしても出来ないようになってしまった。

仙桂和尚こそ真の仏の道を行く者だ。

 

仙桂和尚は、円通寺での良寛の修行時代の兄弟子に当たる人である。

良寛も円通寺にあって禅に経に、朝に夕に励んでいたとき、一見愚かにさえ見える仙桂和尚の真の行いに、ほんとうには気付かなかったのだ。良寛でさえ、出世をめざす多くの僧たちの中にあって見失っているものがあったのではなかろうか。

良寛は、若いころから“競争”を疎んでいたが、大勢の修行僧のいる寺での修業は、やはり“競争”の中にあったのではなかろうか。そういう意味で、良寛でさえ“無心”ではなかった。厳しい長い修行でもほんとうには“無心”にはなれなかったのである。それが托鉢の旅と独居を経た後、いまや遠く離れた仙桂和尚にようやく出会うのだ。

その痛切な悔恨の念が上の漢詩である。

 無心な良寛が、無心な仙桂和尚と出会ったのだ。

 

私が言いたいのは、“競争心は、真実を曇らせる”のではないか という事だ。

ブッシュ大統領は、たしかに日本をよくよく励ましてくれた。けれど自由化=競争の図式はアメリカにはあたりまえでも、日本には受け入れられないかもしれない。逆に自分の首を絞めることにもなりかねない。維新を成したのは、競争心ではなく“和をもって貴しとなす”という日本に綿々と流れている協調の精神と平和を希求する国民の総意ではなかろうか。

イチローの打撃センスを引き合いにして、おだてられたからといって小泉首相も誤魔化されてはいけない。アメリカのラウンドゼロ(爆心地)はマンハッタンでも、日本のラウンドゼロはヒロシマ、ナガサキであることは決して忘れてはいけない。決定的な国民性の違いを忘れてはいけない。私は保証してもいいが、この未来100年のうちに世界中がひとつのイデオロギーでまとまるなんてこたー絶対ない。それをグローバルスタンダードなどといって無理やり欧米の価値基準でひとつにしようとするのには、大きな矛盾がある。矛盾は軋轢となり時に爆発してしまう。

欲を深くもってはいけない。無心で待てば、いずれ出会う。きっと出会う。

ブッシュ大統領の実にすばらしい演説は、維新直後まで日本には“競争”という言葉がなかったという類い稀な素晴しい事実を教えてくれているのだ。

☆ことわっておくが、私はブッシュ大統領が嫌いなわけではない。
 むしろジョンウェインみたいで好きかもしれない。
 が、こと政治経済に関しては、決定的な国民性の違いが、
 漬物石みたいにそこにあることを忘れちゃいけない。
 つまり、日本の漬物とアメリカのピクルスはまったく別物だということだ。

☆ちなみに良寛は漬物は大好きだったようだ。
 坊主なのに魚も食べたそうだ。仏像を枕にもしたそうだ。

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