良寛と遊ぶ8/22AM

8/22

今日も晴天 暑い日が続く。
子供は、買い付け旅行はすこし辛いだろう。
一日のほとんど車に乗って、作家さんのところでも
気をつけろと叱られ、遊んでもろくにあげられない。
長女紗帆は小学3年。長男蒔人は小学1年。
二人ともキカナイ盛りである。丹波から信楽の道のりで、
京都あたりの渋滞に巻き込まれたあたりで、不満を妻に
ぶつけ出した。長女は特にしょっちゅう怒りまくる。
誰に似たのだろうといつも思うのだが、怒りが入っているときは
十分怒らせてあげるのが一番と最近感じる。

赤ん坊は、泣きわめくことで、「気」を大量に発している。
同じように思春期を迎える頃まで、
わけもわかず始終大量の「気」をはいたり、
吸い込んだりしているのだ。
そうやって「気」をあやつる術を獲得していくのだ。
それを無闇に押さえ付けると、「気」を溜め込むようになってしまう。
こうなると、突然切れたり、突拍子もないことをしでかしたりする。
よどんだ「気」に押しつぶされてしまうのだ。
陶器も同じ。いかに名工のものであろうと、
ケースなどに入れて美術館などで展示するようになると
「気」が流れなくなり、「気」が淀む。
そうすると陶器は魅力を失うことになる。

だからしばらくは、紗帆には怒らせておく。
そう、そう、もう直に怒り疲れて寝るだろう。
という間に二人の子供は寝た。

京都の渋滞をぬけると、信楽まではいくらでもない。
妻の運転でつづら折りの山道をぬけると、そろそろ
たぬき山のような大型陶器屋がみえはじめた。
それが、信楽の個性でも有り、悲劇でもある。
観光化による資本の流入で、町は陶の里というより
「たぬき村」みたいな観光地に見えてしまう。
町全体が巨大でまとまりのない印象をもつのは、私だけだろうか。
資本と資本のぶつかり合いの谷間で、陶芸家は逞しく作陶している
はずであるが、総体的なイメージのなかではそれが見えてこない。
そんな印象を受けた。

 

 

 

 

 

福井良一さんを訪ねた。
福井さんは、ホームページを最近たちあげ
それを拝見した私が、連絡を取らせてもらった
信楽の陶芸家だ。明かりの作品にすばらしい個性がある。
造型一般に興味が有り,陶器の枠にこだわりをもっていない。
かわりに物質と物質との間隙に対する興味が
福井さんのこだわり。陶器とガラスと光の組み合わせは、
少しも奇を衒わず自然だ。
福井さんの明かりは、宮沢賢治の右の詩を思い起こさせる。
宇宙と個の神秘が同一であることを想起させるような
ほのかな明かり。日常のなかでは、
見失ってしまいそうな明滅。福井さんの心象スケッチ。
あるいは 遠い日の記憶。
それが「いかにもたしかにともりつづけ」ていたのに
気付いた時、ぽろりと涙をながしてしまいそうなもの。
福井さんは、ひとつひとつじっくり作品を
仕上げる方なのだろう。
ろくろをつかわず、固まりから削り出していくような造型を
丹念にやる。優しい方だ。
お母さまにも大変優しい。
奥様には御会いできなかったのが残念だ。
ホームページの作成は奥さんの手によるらしい。
福井さんの明かりの新作を心から期待してお別れした。

 

 
福井さんの工房にて。
お母さまと一緒に。
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