天器無縫-小山冨士夫と良寛

2003.7.6

 現代陶芸の父とも呼ばれる小山冨士夫(こやま・ふじお、1900〜75)さんの業績を偲ぶ展覧会が開かれている。4月から「陶の詩人 小山冨士夫の眼と技」展が大阪の東洋陶磁美術館にてはじまり、東京は根津美術館で、そしてMOA美術館(熱海)、山口県立萩美術館、富山県佐藤美術館と巡回して、岐阜県現代陶芸美術館で幕を閉じる予定だ。

私も先日、根津美術館にてその展覧を拝見してきたが、いまだに興奮さめやらない。ほんとに優しい人なんだなぁ 焼き物ってほんとにすてきだなぁ って素直に思わせてくれる展覧会でした。

 小山富士夫(陶芸界の最末席をよごす身として、小山先生とよびたいが、ここでは省略させていただく)の作品は、とにかく何に惹かれるのか、いつも私の心を掴んで放さない。作品から、大きな人柄を感じるのだ。天衣無縫と皆が言う。計り知れない知力と計り知れない優しさだ。

 小山さんからみれば孫弟子になる陶芸家 田村浜男さんからが先日、DENにて企画展に参加していただいた。田村さんからお聞きした話によると、小山さんのロクロは、たった一度で勢いよくひき上げるのだそうだ。弟子が、段取りするのが間に合わないくらい早いのだそうだ。それも一日にとても多くのロクロをひくそうだ。それを聞くとなおさらに“天衣無縫”の無縫さの所以を知る思いがした。“天器無縫”とも呼ぶべきか。

 私などは、その素朴さ故に、小山富士夫は研究家であって陶芸家ではないから、あんなに欲得のない無垢な作品ができるんだ なんて思っていた。それは確かにそうなのであるが、若い頃から陶工として修行を重ね、ロクロに及んでは達人的な修行と鍛練を積んでおられたようで、素人的な素朴さとはまったく相容れないものなのである。それはまさに 良寛の書に匹敵するように私は思うのである。

まず私など見識のあまいものには、その素朴さに目を奪われ、素人のものと見間違えるほどだ。この書をはじめて見て、私など凡夫にどうして達人の書と見分けられようか。

小山富士夫の作品は、良寛の書に似た幻惑を覚える。華飾がないのに花があるのだ。優しいのだ。

 

種子島面取花生
小山富士夫 作

それでは、良寛と小山富士夫の共通点をいくつか上げてみるとしよう。

まずは信仰のことがある。良寛は曹洞宗の僧だが、特に釈迦と道元への熱い敬愛の念によって支えられた信仰であった。小山富士夫の方は、クエーカーと呼ばれる敬虔なキリスト教信者であり、若かりし頃は熱心なマルキストでもあった。

そして二人とも晩年には、何ものにも捕らわれない自由奔放な信仰に変化していったようだが、何より信仰によって磨かれたのであろう、深く滲み出るような慈愛の精神が、二人に共通したオーラとして感じぜずにいられない。

 良寛のそんな話しは、他の章でいくつか挙げているので、小山富士夫の逸話を紹介しておこう。彼は若いころ社会主義に燃え、大学を中退して、ロシアに向う蟹工船に乗ったという。過酷な労働をする一労働者としてロシアに渡った彼だが、ほどなく関東大震災の知らせを聞き、再び日本に戻る事になるが、その帰りの舟の中で出会った貧しい老婦に、蟹工船での稼ぎを全部あげてしまったというのだ。万事に彼は、そういう人だったようで、親友の石黒宗麿なんかが、彼のうちに遊びにいくと、お客さんといっしょに酒を酌み交わしている小山富士夫があるのだが、そのお客さんはどう見ても乞食という事がよくあったという。そういう天真爛漫な平等主義が、小山富士夫の、そして良寛の持ち味だと思う。

 次なる類似は、二人がともに、社会的挫折をした後に、旅をすみかにして人間を大きくしていったことだ。良寛は、曹洞宗の名門 円通寺に二十二才から三十なかばまで過ごした。それはそれは熱心でまじめな修行僧で、師からもよく認められ優等生であったという。にもかかわらず、良寛は突如として、寺を捨て放浪の旅を選択したのである。宗門での出世をめざすのが、あたりまえの時代に、良寛はそれをきっぱりと捨てたのである。否、捨てざるをえなかったのだろう。根っからバカ正直で、世事に疎い良寛は、弟子と寺を取仕切るほどの裁量はなかったに違いない。また、それ以上に宗門の形式主義がたまらなかったのでもあろう。

 小山富士夫にあっても、若き頃は一途に陶芸家をめざした。が、はやり挫折があったといっていいだろう。三十才を前後に、作陶を断念し、古陶磁研究にどっぷりと身を投じていく。一年の半分以上は旅中にあったといわれるほどだ。中国はもとより、ヨーロッパ、アメリカ、メキシコ、東南アジア、台湾と、旅から旅の人生であったようだ。小山富士夫の挫折もまた、良寛のそれと同じく、純粋さ故の挫折であったと思われ、その旅も当初は、いくぶん逃避の意味合いがあったのではと想像できる。しかし、いずれもその旅こそが、後年の成果をなしたと言えるのではなかろうか。

 三番目にあげる類似点は、二人が語学に堪能で、ともに偉大な詩人であったことである。良寛が漢詩と和歌にすぐれた詩人であるのは言うまでもないが、小山富士夫もまた大変な詩の愛好家であったようだ。特に良寛の詩にあっては、呑んで興にいれば、かならず爪楊枝の先や割り箸の先で、良寛の詩を綴ったと言われている。そういう意味では、小山は良寛に対して、ただならぬ共振を抱いていたと想像できる。その共振とは、“純粋さゆえの弱さ、寂しさ”であり、旅をすみかにする放浪の詩人の血統なのだと私は思う。

 思えば、陶芸は詩作にとても似ているところがある。詩というものは、何度も更正を重ね完成に近付けて行くもの。それでいていつも初心の無垢な心持ちでなければ、詩は死んでしまう。

心から溢れ出るように詩が生まれ、その詩を(毬を突くかのように)繰り返し咀嚼して本当の詩にしていく過程は、陶芸家の修練に似ている。良寛は、蹴鞠よろしく、特にそれをよくした人だった。そして、それが漢詩や和歌を経由して最後には、学識や形式に捕われない純粋無垢な“童謡”という形になったのだと私は思う。一方、小山富士夫にあっては、無数の研究調査と実践の末に、天衣無縫と賞される、ロクロ一発挽きの“やきもの”になったのだと言えるのではなかろうか。そんな小山富士夫を『陶の詩人』と言う人もいるが、まさに我が意を得たりである。

 まだまだ類似点をあげればキリが無い。良寛の『俗にも非ず 沙門にも非ず』という曖昧な立場も、『陶磁研究家でもあり、陶芸家でもある』という小山富士夫の立場にも似ている。また、小山富士夫の酒のみは有名だが、良寛においても僧でありながら、無類の酒好きだったようだ。良寛の書は、いまや天下のものだが、なかなか小山富士夫の書も、先の展覧会では筆頭を飾って堂々とした書(深山無花)で、私はいきなり身震いしたほどだ。また、小山富士夫は、自分のやきものをやたらに人にあげたらしいが、その点も良寛に似ている。自分のために作るのだが、自分のものにはしないのだ。また、二人とも、よく泣いたようだ。お気に入りの詩など読みながら悦に入ると、どっと涙を押し流したりするようなところがあった。そして、これは想像の域を脱しないかもしれないが(否、間違いないと私は思うのだが)二人は女にもてた。しかも、ずいぶんと。そしてまた間違いなく、男にも、またずいぶんともてた!!はずである。

 

 それでは、小山富士夫先生が、生涯愛してやまなかった良寛の詩でおわりましょう。


小山富士夫 書

 

回首七十有余年

人間是非飽看破

往来跡幽深夜雪 

一しゅ線香古匆下

 

首をめぐらせば七十有余年 人間の是非 看破するに飽きたり
往来の跡 幽かなり 深夜の雪 一しゅの線香 古匆の下

七十数年を生き来た道のりを振り返ってみれば、人間の是非を見極めるのも、もうすっかり飽きてしまった。窓の外は、夜雪は深々と降り積もり、行き来する跡も見えなくなろうとしている。しかしその古びた窓の下では、ただ一本の線香だけが、刻々と時間を刻むように、ゆらめいていることだ。

 

 この良寛の詩、この展覧会の筆頭を飾った『深山無花』という小山富士夫先生の書と、まったく同じことを語っているような気がしてならない。

長年けんめいに山の奥へ奥へと踏みいって来たが、そこには結局自分が求めた“花”はなかった。あるのは、山に憧れて、そこに“花”を求めた自分自身の若くて純粋な“心”だけだったのだ。それは山に踏み入る前から、自分自身の心の中に咲いていた花。

 そんな諦観なのではなかろうか。

小山富士夫 書

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