良寛と遊ぶ

8/23
四日市のシティホテルで目覚める。
腰に爆弾を抱えてる私は、床の絨毯の上で
目覚めた。ベッドが腰を痛めるからだ。
しかも、空調の調整が悪く冷えきって目覚める。

今日も晴天だ。
寝起きの不快さも、朝の渋滞から抜けると
消え去り、常滑への順調な走りと
さわやかな天候に気分を良くした。

常滑市街に入ると、陶芸家、稲葉米紀さんが軽トラック
でお迎えに来て下さった。
稲葉さんは仕事服というよりも、非常にラフな格好で
すばらしい笑顔でお出迎えくださり恐縮した。
今回の買付けでは、最年長でもうすぐ60才になられる。
陶芸家にありがちな、前に出る「気」を感じさせない。
僧のような、おだやかな「気」に満たされている方だ。
軽トラックについて行って、常滑の焼き物散歩道の中ほどにある
稲葉さんの工房兼直売店に案内された。
散歩道の一番良いところにあり、お客さんも
立ち寄りやすいところだ。
そこからすぐの建築陶器窯元の三男に生まれた米紀さんは、
まさに常滑の人。土と共に生きてきた人である。
稲葉米紀さんと息子さんの作品を見せていただく。
すべて穴窯の作品、自然釉か粉引のいずれか。
薪釜に粉引を入れるからだろうか、自然釉のものも、
変化にとんでいる。粉引も、もちろんさまざまな色をみせる。
しかも、価格は十分に抑えられており、
窯の大きさと精度がはかり知れる。
息子さんが、ここで作陶しながら店売りをする。
米紀さんは、自宅に工房をかまえてるという。
米紀さんは、ほんとの職人技で極上の急須をつくるが、
それはまだ息子さんには作れないという。
逆に息子さんの作品は、自由で延び延びしていて
米紀さんの緻密さとは異なるいきよいを感じる。
同じ窯で焼くお互いの作品は、それぞれにすばらしい
四日市の熊本さんのところでも思ったが、
親は教師であり、且つ反面教師でもある。
そういう関係がベストなんだろう。
お互いの良い関係が築かれていれば、おのずと
作品が良い影響を見せる。陶工と陶芸家のはざまで
作陶する人と作品が私は好きだが、親子関係も同じで
どちらかに片寄るといけないようだ。
親と自分のはざまで仕事をし、子供と自分のはざまで
仕事をする。ものづくりを受け継ぐためには、
そういった凌ぎあいが必要なのだろう。
稲葉さん親子が 工房を別に作陶しているは、
造型が短絡的に似てしまわないためだという。
凌ぎあうために、ある距離を置く事もまた必要であるに違いない。

良寛は、若き日に父を捨て他国へ奔った。
それから円通寺に修行すること十数年。印可をうけても住職とならず、
寺を出て行脚の人となること五年。父以南は、放浪の文人で
京都で入水して果てる。その報を聞いて良寛は二十年ぶりに
故郷へ帰り、行乞者となるのである。

父と距離を置きながらも、すこしも離れていなかった良寛。
凄まじい修行でも断ち切れない親子の絆とはいかなるものなのか。
この断ち切れない優しさが、私はたまらななく良寛が好きな
所以なのだろう。

 


店鋪兼工房にて





上の二つの句は
良寛の父、以南が
詠んだ句といわれます。
これが書かれた画仙紙と短冊を
良寛は終生手放さず所持した。

父の自殺の報を聞いて
良寛は長い行脚におわりを告げ
故郷の越後に帰り、
行乞の人となるのである。

親子とは如何。

稲葉さんに買付け分の梱包を
お願いして、焼き物散歩道を散策させてもらった。
はじめての自由時間といったところだ。
この町並みは、風情があり大好きだ。
私には特に郷愁を誘う町である。
私の父には里がなく、母の実家は埼玉の川口にあり
よく遊びに行った。鋳物工場が立ち並ぶなかにあり
いつも鋳物の臭いがした。その川口の風景にとてもよく似ている。
土と鉄の違いこそあれ、工場と職工のまちであることに違いない。
全体に火で焼けて黒っぽい町並み。
ここで土管や大瓶が大量に作られていた。いまでも
そこそこの需要はあるようだが、全盛期の比ではないだろう。
ここ旧工場地域に限っていえば斜陽のまちといえるが、
それを逆手に観光化して保存しているようだ。
それはもう、職人のしわざでなく、商人のしわざといえよう。
それにしても、何度も来てみたくなる町だ。

ジョンフォードの「わが町は緑なりき」という映画を思い出す。
汗と炭にまみれる、誇り高き炭鉱夫たちの町。
二十世紀の最も美しい映画のひとつ。
この映画もフォード一家の職人達の手で作られたと言える。

この町も以前、誇り高き職人の町だった。
確実にその臭いを感じる。
今もその誇りが受け継がれていることを祈りたい。

 
残念ながら土管坂で遊ぶ子供は
わが子以外いない


煙突が立ち並ぶ町並み
「わが町は緑なりき」のごとくなり

朝顔と土管の金魚と風鈴と

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つづく