8月のでんチャン

過去のでんチャン

現在の日々でんへ行く?

過去のでんチャン2001年11月に行くの?

過去のでんチャン2001年10月に行けば?

過去のでんチャン2001年9月に行くん? 

過去のでんちゃん2001年8月へ行くう?

過去のでんチャン2001年7月を行くか?

-2001年8月27日-

今日はからだが疲労してるせいか、

考えがまとまらない。

 

何回か書きはじめて、やめてしまった。

いつも思うのだが、このデタラメな書き汚しも、

なにか役に立ってくれたのなら、うれしいなあって。

だから、結構ふざけながらも、言いたいことをもって書こうと思ってる。

しかし、それがどうも今日はまとまらないので、

他人の力を借りてしまおう。

寺山修司の著書に『ポケットに名言を』というのがある。

これって、そのものズバリ。

名言を好んで持ち歩くように、気軽に口にしようよ!

しかも名言はあらゆるところに転がってるぞ!ってこと。

流行り歌、ドラマ、犯罪者のことばなどなど。

言葉は持ち歩くのに重たくない。

それに、座右の銘は日替わりだってOKなのだ。

そういうことで、今日のでんチャンの座右の銘。

 

入来に最後まで投げさせろ!(絶叫)

by紗帆(娘=10才)@今夜

 

ときに必死なピッッチャーと心中もよかろう!

たとえそれでシーズンを失ったとしても。

それができるのが真のリーダー!

そういうことは、10才の女の子でさえ分ってるものなのです。

 

さあ、そういうわけで皆さんも名言さがししませんか。

 

-2001年8月27日-

私は陶器屋でもあるが実は屋根屋でもある。

今日は午後から屋根の改修の仕事で練馬の方へいった。

やり始めたところで、

ぽつりと雨を感じて空を見上げると

どんよりした雲が迫ってきていたので

かたづけをすっかりすませたら、晴れてしまった。

こういう時はツイテ ないと諦めるしかない。

無理をして雨漏りでもしたら、改修の時は

えらい事になる。お客さんが住んでいるからだ。

一滴でも部屋に雨水が落ちようものなら、

たいへんな騒ぎになってしまうお客さんもいるのだ。

こうなったら、いかんともしがたい。

ひたすら謝るだけだ。

しかしながら、わたしが常々思っているのは、

日本の家というのは、ところどころに隙間をつくって

風通しを一番に考えてつくるのが、最良だと考えてる。

先日、私は瓦屋根の新改修方法で、一枚一枚の

瓦の廻りに全部、シール材を注入してしまうのを

見たが、これはたしかに雨漏りを一時期完全に防ぐが、

屋根裏の換気をおそらくはかなり悪くすると思った。

 

さて、われらが焼き物の場合も、うつわは漏れてはいけません。

しかし、極端に敏感になってしまってもいけません。

なぜなら、日本家屋が風通しを重視してきたように、

焼き物もまた、その土の疎であることに

趣を感じてきたからだと思います。

疎であるがゆえに、焼き物に『気』が入っていったり、

『気』が出てきたりするのではないかと感じます。

均一でない土だからこそ、趣きがある陶が生まれるような気がします。

ひとつの好みにすぎないのかもしれませんが、

日本人が古く縄文の時代から培ってきた美意識だと思うのです。

密でない事。

疎である事。

隙があること。

大事にしなければいけないことだと思います。

したがって、日本の風土に北欧住宅のような

完全密閉した家屋はそぐわないように思うのです。

それにしても、焼き物(うつわ)と屋根は似ています。

水との戦いでありながら、水と戯れるようなところがある。

陶芸もそうですが、ちまちま神経質になってはいけません。

屋根は勢いよくリズムで葺き上げなければいけません。

と私は思うのですが、

世間は許さない場合も多々あります。

では。

 

-2001年8月26日-

稲垣五郎はきっとラブホテルから出て来たところで

気まずかったので、逃げたに違いない、ということが巷で言われてるようだ。

はっきり言って私もはじめそう思ったが、それは間違いでしょう。

天下のスマップが道玄坂あたりのホテルを利用するはずがない。

ましてや路上駐車する必要があろうか。

ならば、どうして?

私が推察するに、うんこである。

駐車場にとめる間がなかったので、路上に止めて用を足しに行った。

しかも間に合わなかったので、ズボンを汚してしまった。

それで、恥ずかしい五郎は焦ってつい逃げてしまったにちがいない。

こんな話をするとナンセンスだ!しかもきたない話すんな!

という人がいるが、物事の真理にはかならずこういった汚い、あるいは

笑える新事実が隠されている。

むかしこんなつくりばなしを聞いたことがある。

かなりハヤッタ話しだから、聞いたことがある人もいるだろう。

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新御三家3人が、魔女に捕まって、食べられようとしていた。

3人(五郎、ひろみ、英樹)は、魔女に嘆願した。

3人:

どうか逃がして下さい。なんでも言うことを聞きます。

魔女:

そんなに泣いていうのなら一度だけ、チャンスをあげよう。

畑に行って、まず野菜をとってもってこい!

3人は必死に野菜を探した。

そして、

まず、英樹がキュウリを持って魔女のところにやってきた。

すると魔女:

おう、よくやった。その野菜をお尻の穴にいれてしまいなさい!

しかし、そのとき少しでも笑ったら、食べてしまうぞ!

英樹はなんとかキュウリをおさめることができ、命を取りとめた。

 つぎにやってきたのは五郎だった。

五郎がもってきたのは、ナスだった。

魔女は同じく言った。

魔女:

おう、よくやった。その野菜をお尻の穴にいれてしまいなさい!

しかし、そのとき少しでも笑ったら、食べてしまうぞ!

 

五郎は一生懸命試みた。しかしなかなか入らない。

涙がでてもなお、ふんばった。

そして

もう少しで、ナスがお尻の穴にスッポリ見えなくなる寸前!

五郎は思いっきりブホォッって笑ってしまった。

魔女:

笑ったな、五郎よ。お前は食べてしまおう。

しかし、五郎よ。お前なんでもう少しのところで

わらってしまったんじゃ!

 

 

五郎:

だって、むこうの畑から

大きなすいか

担いでやってくる

ひろみが見えたから・・・

 

おわり。

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そんな物語が、

今回の五郎の道玄坂駐車違反逃亡事件の影に、

隠されているような気がしてならない。

う〜ん、でんチャン

今日も絶好調!

おしまい。

 

-2001年8月25日-

今日はお店にHEEさんが来た。

カリフォルニア帰りのおしゃれなオネーさまって感じで、

たいへん素敵な方でした。特にシェイプアップしたばかり?

のボディはとても○×才とは見えない若々しい感じでした。

 

奥様がいつもきれいでいられるのは、旦那さんに愛されてる証拠。

これ、よく言われることですが、半分くらいは正解。

すごく遠回しにいきますが、

私なんかは霊験あらたかな神社仏閣に足を踏み入れると、

なんだか鳥肌がたつような緊迫感を感じますが、

それって、御本尊様がもともとすごい霊力をもってるわけじゃない。

最初は、せいぜい一仏師の思い入れくらいなもので

ただの仏人形にすぎないもんだと思う訳です。

それが、何千何万の人々に熱心に拝まれることで、

霊力が育って、ただの仏人形が、霊験あらたかな御本尊へとなるわけです。

お経なんかもそうです。ありゃインドの言葉からいろんな言葉を経由して

漢語になり、それの日本語読みのお経なんだから、そもそも音だけを聞けば

何の意味もない音の羅列みたいなもんです。この単なる音の羅列が、

力をもってくるのは祈りを込めて、それを繰り返し口にした多くの人々がいたからです。

 

はいはい、そうです。われらが焼き物も、同じように育つわけです。

愛されて大事に使われていくから育って名器となるわけです。

 

はい、そういうわけで旦那に愛されてる奥様は、どうも美しいらしい。

HEEさんが美しいのは、そういうわけだと思われますが、

例外もあります。別に愛されるのは、旦那にかぎらないから・・・

 

まあ、妻が、ほかの男性に惚れられるなんてのは、旦那名利ということかもしれません。

焼き物だってそうでしょ。友人に 『いいなぁ それ、くれよ』って言われると

意地でもあげたくない。逆に、あげるつもりが『いらね〜よ〜』なんて言われると、

いままでのその焼き物への恋心がいっぺんに冷めてしまうことだってあるからなぁ。

そういうこと?も含めて夫婦もまた育っていくのでしょう。

でも、

うちではどうも妻ばっかり育ちます(業務連絡:きれいになるってことだよ〜)

私はどんどん子供になってゆく。

どうやら 愛されていないのかも。

 

-2001年8月24日-

今日はお店にそらさんが来た。

つぼ押し君なるものを持って来てくれた。

そりゃ〜握って気持ちよく、押して快感!

音楽や言葉や焼き物も好きでなきゃ 自分のものにはけっしてならない。

心に快感だから、耳に快感だから、目に快感だから

それだから身につくのです。

快感は決して 悟りの道と相反するものではないと思うのです。

いうわけで、『宇宙からの物体C』更新しました。

極楽浄土!←クリック

また、そらさんの宇宙人たる所以を発見しました。

ふつうの人は、魚を描いて下さい!って言われて

ごく自然に描くと

十中八九 左向きの魚(頭を左に、尾を右側に)を描く。

それなのに、というか やっぱり、つぼ押し君は右向きだった。

 

-2001年8月23日-

夕方東京からの帰宅途中、渋滞運転の車内に

我が息子(8才)蒔人から携帯に電話がかかってきた。

あと何分くらいで帰るの?っていう

内容で、なんか私に早く帰って来てほしい様子。

たぶんそうだろうなって思っていたら、そうだった。

珠算検定の合格証書だ。

パパにちゃ〜んちゃ〜かちゃ〜んちゃん♪ ちゃちゃちゃちゃちゃ〜ちゃ〜ちゃ〜♪って歌って、

家族の前で読み上げて、渡してもらいたかったようなんで、

望み通りにきちっと歌って、読み上げて渡してあげた。

子供のそういったかわいい感性は、大事にしたいものである。

さて、

最近ちょっと心配になるのは、子供の感性を育てるような歌謡曲が少ないこと。

蒔人などは、ほとんど歌謡曲みたいなものを歌わない。

こないだユーミンのベストを買って聞いていたら、これには反応して

デビュー曲の『ひこうき雲』などは口ずさんでいた。

その歌詞にちょっとひっかかったらしい。

蒔人が私に聞く

『“あなたのいのちは、ひこうき雲”ってどういう意味?』

それにうまい答えは言えなかったが、蒔人がそういう詩的な言葉に反応してくれたのが

うれしかった。蒔人は小さい頃からかなり言葉が遅くて、心配したからなおさらだ。

そういう意味で、気になってリフレーンしてしまうような詩的な言葉をのせた音楽が少ない。

思えば、私達の小学校のときの流行りは、フォークソング。

それから30年あまりたってもやっぱり、私は、陽水、こうせつ ばかり。

彼等が、私的で詩的な言葉を、私的で詩的な音楽に載せて私にいっぱい運んでくれた。

とても感謝したい気持ちだ。そういう言葉が案外、

現在の日々の生活のリズムや、感性の核になっている気さえする。

蒔人が“あなたのいのちは、ひこうき雲”って何?と思うように

私も“傘がない”ってどーゆーこと?????って感じだった。

でも、なんとなくその雰囲気は感じとれてた。それでいいのだった。それが大人の世界の臭いでもあった。

そういう意味で一番残っているのは、『神田川』。

銭湯に通っていた私は尚この微妙な愛の歌に感化された。

そして、幼い思考でその意味を何度もたどったのが

“若かったあの頃 なにも恐くなかった。

ただ あなたのやさしさが恐かったという歌詞。

やさしさが恐いってどーゆーこと?

幼きでんチャンは途方にくれながらも

扉の節穴から大人の世界を覗き見する気分だった。

そういう情緒を刺激する歌を蒔人には、いっぱい聞いてほしいなあと思う。

最近の流行り歌は、言葉がほとんど聞き取れない。聞き取れてもくだらない。悲しいかな。

それにしても、若かったあの頃と歌ったこうせつは、

あの時いったい何才だったのだろう!

若い時分に老成できた精神は、現在では子供の精神にもなれるのだろう。

そんな変幻自在の大きな器を、南こうせつさんには感じる。

大器晩成。

蒔人君にはゆっくり育ってもらいたいものだ。

 

 

-2001年8月22日-

台風一過。夕方から晴れていました。

神奈川東京にはほとんど大きな被害はなかったようです。

なによりです。

思うに台風は、人の精神活動において考えると

恋のようなものではないでしょうか。

一年に何回か近くをかすめるような気がする(関東地方で考えてる)

近付いてくるときは、けっこうワクワクしてる。

10年に一回くらい直撃する。

かなりひどい足跡を残すことがある。

通り過ぎると、きれいさっぱり洗い流されて周囲が綺麗になっちゃう場合も多々ある。

 

以上のような点から、台風と恋は似てます。

だからどうだってこともないのですが、

気象的な現象は、精神活動のマクロなモデルと思える。

逆に精神活動の方がマクロなのかも。

いずれにしても、台風は通り過ぎるものだ。

恋は遠い日の花火ではない

という名コピーがあったが、私はならこう言う。

恋は台風。花火は中止せよ!

サブコピー:オチョコにする前につぼめとけ!

はい、では明日また。

 

-2001年8月21日-

本日は台風のために、本業の方の仕事に余裕ができたので、

本業のホームページをつくっていました。

うつわのみせのことばかりやってると、

なんだか 兄(社長)にうしろめたい感じもするし、

デンちゃんは、うつわうつわとそればっかし みたいに

思われると、シャクじゃから、結構まじめに取組んでみました。

ただ、あんまり営業っぽくしても どうせみんな見てくれないので

ちょっと役に立ちそうなことを書いてみました。

どうぞ一回覗いてみて下さい。↓クリックして!

というわけで、今日は脳がぴーぴー言ってますので

本日はこれまで!明日は台風に関して書いてみようかな!

 

-2001年8月20日-

ディズニー シーは何かと話題にされて

きっとまたディズニーは大勝利を納めることだろう。

けれど私はなにかディズニー系には

納得がいかないいごごちの悪さを感じる。

私の世代は、学生の時にディズニーランドのオープンを経験した世代で、それなりの

恩恵を授かってはいるものの、浦安からの帰り道にはいつも無念な思いを

秘めていたような気がする。

大晦日に大雪のなか、帰りのバスを待って凍えたからではない。

はじめてアベックで行ったのが、好きでない娘だったからでもない。

エレクトリカルパレードを見るため、冷たい路上に座って痔寸前になったからでもない。

パレード見るため最前列でさあ来るぞってとこで、娘に『パパ、うんこ』って言われたからでもない。

1時間あまりの肩車で腰痛を再発させたからでもない。

 

ただ、

ただ、

月の石の屈辱を思い出すからなのだ。

前にも7月20日記書いたが、

大阪万博の月の石で味わった敗戦国の屈辱を再び味わうような気がするからだ。

日本人のように従順におとなしく列を作って順番待ちする民族がほかにあろうか。

アメリカはその従順さに、あまえていないだろうか。

利用しようとしていないだろうか。

大国の奢りはないだろうか。

日本人は、チョコレートに目が暗み、

甘納豆の旨味を忘れていないだろうか。

実際、

日光江戸村の焼き鳥のほうが、

キャラメルのポップコーンなんかより少しだけど旨い。

日光江戸村の茶屋の娘は、特別に、ねぎだけだって焼いてくれた。

ディズニーランドにそんな融通がきくかってんでぃ!

こないだNHKの特番で深夜『人類、月に立つ』ってトムハンクス監督の

アポロ計画のドキュメンタリードラマをやっていた。

宇宙飛行士たちにとってそれは、死を駆けた挑戦でたしかに感動的だった。

が、

政治的には『ソ連より早く月に立つ』ことだけが重要だったのだ。

すなわち月の石は、冷戦の賜物なのだ。

まあ、たしかにソ連製のテーマパークには行きたいとは思わないが、

冷戦の賜物を長時間列んで見せられても、日本人は???だ。

ディズニーはたしかに夢と希望を与えてるように見えるが、

もしかしたらピノキオに出てくる遊園地?

そこで遊び呆けた子供たちがロバになってしまうように

そこにアメリカの陰謀はないにしても、日本人の子供が

どんどんロバになっていくのは事実のような気もする。

頑張れ日光江戸村!

頑張れ宮崎駿!!

ついでに うつわのみせDENも頑張れ!

 

-2001年8月19日-

昨日は多摩川の花火大会だった。

あいにく多摩川までいくことはできなかったが、

打ち上げ場所が微妙に移動したらしく、

いつも見えないのだが、自宅のキッチンから

花火がよく見えたそうだ。

私も残業の帰りの車の中から ちらりと

花火を拝ませてもらった。

しかし、遠く離れて見る花火は

本来の花火とは別物に思える。

花火の正しい見方は、

できるだけ近くで見る

ことだと思う。

なぜなら花火は見るというよりも

聞くものだからだ。

しかも全身で聞くものと心得ている。

さて、それで何が言いたいかと言えば

うつわのことである。

このサイズだと遠くに見える花火。

本性を感じられない。

全身で見る。

あるいは、触感的視力で見るためには、

つぎの文字をクリックして下さい。

いくらか肌で感じられます

たまやー!

 

-2001年8月18日-

昨日書いたさるすべりのことを

よく見れるサイトを見つけましたので

私と同じように、さるすべりの花って

どんなのだっけ?なんて言ってる人はどうぞ

鎌倉の百日紅 http://www.tk.airnet.ne.jp/kamakura/index.html

さるすべりって百日紅って書くんですね。

お寺などに多く見られるそうですから、

お盆の思いでになってる方もいるかもしれませんね。

私もこの夏はじめてそれと知ったのは、お寺の境内でした。

拝殿に被いかぶるように咲いていました。

以前に紹介した家の近所の『影向寺』に咲いていたのです。

それで、気になっていろんなところに

咲いているのを発見しました。

横浜の港あたりにも、成田に行く高速道路でも見つけました。

今日いつも行く蕎屋で昼食をとりながら、

『だからあなたも、生き抜いて』という本を読んだ。

著者は中学校の時、いじめにあい

それが苦で河原で割腹自殺をはかったことがあり、

悪のかぎりをつくし、暴力団組長の妻になって入れ墨までした人だ。

その彼女が、ある人と出逢い、更正して

弁護士にまでなって、今はいじめを受けてる子や

親の力になるために、尽力している。

その人と出逢わなかったら、彼女は更正しなかっただろう。

また、その人と出逢っても話を聞く耳をもたなかったら同じだったろう。

花と蝶との出逢いのように、無心に成れるかどうか、それが決め手だ。

私は今回の百日紅との出逢いをこう解釈してる。

影向寺の百日紅:仏門      

港の百日紅:出航 旅立ち

高速道路の百日紅:行くべき道をいけ!

メッセージは読もうとするものにだけ読める。

聞く耳、見る目、読む気は、

みな備わっていて、使うべきときに使わなきゃいけない

みたいなんです。おそらくは絶対。

その意味では無心とは信じる道をいくこと。おそらくは絶対。

 

 

 

-2001年8月17日-

お盆休みに妻(店長)の実家の

成田に家族で行って来た。恒例なのだ。

いつもは海にいったりもするのだが、

二日目に佐倉にある国立歴史民族博物館に

行った。そこは、古代から現在までの

日本の歴史と日本民族のことを

多くの資料、複製品、書籍、ビデオなどで

楽しく学ぶ事ができる巨大な施設だ。

我々は縄文時代から現代までを約2時間半の超特急で

観てまわったのだが、それでも

大変勉強になりました。そこでの

お義父さんとの会話の中で、

私は何回か同じ言葉を聞いた。

義父:

『こういう事とか、引退したらゆっくり勉強してやろうと

思っとったが、いざ引退してみると、時間がたくさんあるのに

グランドゴルフばかりじゃ。』

人は、やりたいと

思ったその時に

やらなければ

おそらくは一生出来ない

のだろう。

義父の言葉で改めてそう思った。

なぜなら、義父は自衛隊でたたきあげで

とても上まで行った人で、非常に意志の強い人だ。

その義父にして、できないのだから私などは

到底無理である。

さらに『やる気が起きないのに、それを

やるのも至難のわざである』

それは、子供達の行動を観察してると

即ちわかる。この歴史民族博物館内でも、

大人が説明しようとするような事は

大抵子供の興味のほかである。

そのかわり興味をもった事は、子供の目の輝きが明らかに違う。

人と対象の出逢いは、おそらく両方で向き合った一瞬しかない。

ぼんやりしてて、それに気付かない場合もあるのだろうが、

その出逢いに気付いた場合には、即座に

するべき事をなすべきなのだろう。

すこし余裕が出て来たらやろう というのは無理なのだ。

特に私みたいないいかげんな性格のものには絶対無理。

そう、そう言えば、

私はこの夏はじめて

さるすべりの花に出逢った。

この半生、さるすべりの木は知れども

その花をそれと知って見たことがなかった。

真夏のこの時期に燃え上がるように

激しく咲き乱れる非常に情熱的な花を

私は39年間見過ごしてきたのである。

出逢いは、そういうふうに突然、

多くのメッセージを抱えて、

しかもさりげなく起こるようだ。

 

-2001年8月12日-

明日から妻(店長)の実家の成田に家族で

行くことになっているが、子供の学校の

宿題が終わらないと、行かない約束になっている。

したがって、いまごろ必死になってやってるはず。

さて、

きのう、人は死んで言葉になるっていうことを

書いたが、その意味ではお年寄りは、

より完全な言葉に近づいてる。

だから、お年寄りの言葉には、真実と重みがある。

それなのに最近はどうもお年寄りの話しを

聞こうとしない輩が多いようだ。

悲しいというよりも、亡国の危機さえ感じる。

夏休みに、帰郷する方々は是非とも

お年寄りとたくさんお話をしてもらいたいと思います。

私もお義父さんやお義母さんの

むかしの話を聞くのが好きです。

特に蒔人とお義父さんの会話は、傍らで聞いてて

腰がくだけるくらいおもしろい。

そう、そう子供の言葉も不完全なだけに輝いてる。

蒔人とお義父さんの間には、3/4世紀が横たわっている。

世紀を超えて言葉が交わる時、言葉は言葉として

爆発的に飛躍するように思う。

たしか3年前の夏に、こんな会話を耳にした。

義父:

おーい まきと。

おじいちゃん、もうお金ないんよ。

蒔人:

おじいちゃん。だったらお金、

銀行で買ってくればいいじゃん

義父:

そ、そうか!まきと!

そりゃ おじいちゃん

気がつかなかったよ。

まきとは いろんなこと

知っててえらいのうぅ。

私もいつか銀行でお金が買える時代に

早くなってもらいたいと切に

願うのものであります。

ということで

はぶあぐっどばけーしょん!

8/16までお休みします。では。

 

-2001年8月11日-

今朝のNHKでやっていたんだけど、

神奈川県の座間の方で変わった展示会を紹介してた。

自殺や不遇の事故や犯罪で死んだ子供を思って、遺族が

ある造型作家を中心に集まり、人型の白いパネルに故人の

生前の愛用品や手記などを貼り付けて、多くの人に不遇で

死んでいった娘や息子の思いを知ってもらいたいという企画。

パネルは故人の生前の身長と同じ高さにつくられていて、

何十ものパネルが展示会場に立ち並ぶと、彼等の霊が集っているかの

ように見えて背筋が氷る。多くの遺族は、泣きながらパネルを

つくり、子供の死から自分へのメッセージを発見しようとしている。

これを見ていてつくづく感じた。私が父や母をなくしてから

ときどき思ってたことが、そのとき言葉になったように感じた。

人は、肉体を離れて、言葉になる。

遺族にとって、愛する故人は、愛するメッセージとなるのだ。

我が敬愛する寺山修司は、

人は不完全に生まれてきて、一生かかって完全な死体と成る。

とよく言ったものだが、私はこう言い換えてみたい。

人は不完全な言葉として生まれてきて、

一生かかって完全な言葉と成る。

 

私の父は『仕事をしろ』という言葉に成りました。

私の母は『身体を大事に』という言葉に成りました。

私はといえば『人と物に優しく』って言葉になりたいなあ。

決してなってはいけない言葉もある。人を憎む言葉にだけは

なってはいけない。古来そういう言葉になってしまった霊を

浮ばれない霊と言った。そういう霊はお盆にかぎらず、始終そこいら

をうろうろしている。その悪しき言葉を救うのもまた言葉なのだろう。

南無言葉仏 なむことばぶつ 合掌。

 

-2001年8月10日-

ミラクル アゲイン!ったー

よく言ったもんだ〜。

今日からジャイアンツの快進撃のスタート!

桑田が力投。松井が2発。

仁志の幻のホームランは、お賽銭みたいなもんだ。

ここはキッパリいこうぜ、仁志!

今日のホームラン→ファールの判定で

再打席凡退してベンチに帰った仁志は、

悔しさまぎれに、レルメットを思いっきり

叩きつけてた。気持ちはわかる。

が、

ものにあたってどうなるんだろう。

野球は特に、バットを叩き付けたり、ベンチの椅子を蹴ったりする

輩が多すぎるような気がする。監督から率先してやってるチームも多い。

野球選手は、職人みたいなものだ。

その職人が、それでおまんま食ってる道具や設備を

粗末にしちゃーいけない!

陶芸家がろくろを叩いたり、窯を蹴ったりするのと同じじゃ!

 

そこで提案。

サンドバック。

たとえば古田のお尻描いて(ちっちゃくネ)

ベンチの脇につるしておこう!

拳で殴ったら大事な手首を痛めるから、

蹴りでいこう!

キック!キック!

まず、

きよちゃんの飛び膝蹴りが見た〜い!!

8時の男の企画なんかより

ずっと面白いと思うだけどなあ。

今日の一番すんごい蹴りを当てた人に

ベンチ裏席プレゼント!みたいな。

今日の正解はマルちゃんのローキックでした!みたいな。

ファンはホームランも空振りも

両方いっぱい楽しめるじゃん!

これぞスポーツマン精神!

抑えられそうもない怒りも

エベルギーを解き放つように

多くの人を楽しませる愛へと昇華させていこう。

そう、そう。今日久々に長島が長時間におよぶ抗議を見せてくれたが、

長島にしてみれば、夏休みで球場に子供も多い、しかも

ホームで長時間中断させてるのはとても忍びなかったはず。

例えばあのとき原ヘッドコーチあたりが

例のサンドバックを担いで、長島の傍らまでやってきてほしい。

それを見た長島は、きっと原に親指をたてて合点したはず。

そう、今この時何をすべきかを!

そう!

蹴る!

抗議しながら

蹴る!蹴る!蹴る!

きっと長島なら回し蹴りまで見せただろう。

球場は割れんばかりの盛り上がり!子供も大喜びだ〜!!

そういう諧謔の精神とサービス精神をすべての野球人に!

でんチャンの願い。

世界平和!

 

-2001年8月9日-

妻と子供たちがキャンプから帰ってきた。

夕飯に何が食べたいか電話で聞いてくれて、

私の好みの食事を子供たちが作ってくれた。

なすときゅうりの浅漬け。

貝とわかめのおひたし。

ししゃもとしいたけの焼き物。

ベーコンと椎茸の茎の汁。

はちみつ入りのご飯。

とうもろこし。

冷やっこ。

よく冷えたビール。

いただきます。

あっさり系のリクエストによく応えてくれた。

私の好みのうつわを使って、紗帆が頑張って盛り付けてくれた。

ほんとうにうれしい。

しあわせかも。

ほんと。

家というのは、ほんとに大きなうつわだ。

今、

家といううつわは、たしかに喜んでいる。

うまい料理を盛られて、小躍りしてる。

ちょっとアクは強めだけど・・・

きのうの静寂も恋しいけど・・・

 

-2001年8月8日-

さて問題!

昨夜はひとりさびしくでんチャンは晩酌。

ビールをやったのは、どのカップ?

答えは、これ! だから どうしたってことはない。

これが伊藤麻沙人先生のビアカップだからっていって

特別扱いはしない。

酒好きの前にうつわは皆平等!なのだ

ちなみに一番右はでんチャン作。それでうまい酒が飲めるときもある。

要は、酒好きは気持ちよく、うまい酒が飲めればいいのである。

 

さて、

さっそくこのビアカップで一杯やりながら

テレビを見た。これがひとりだと、しんみり

ゆったりリッチな気分で見れるのはなぜだろう。

NHKで『ショータイムマシーン』という

かとちゃんと井上順が進行役のお笑い系のショー番組。

きのうはゲスト中森明菜!

明菜・・・ああ明菜!

彼女は間違いなく ひと時期、

頂点に輝いてる星だった。

たしかに今も、きれいだ。

一時期ひどく痩せてしまったが、

今はずっときれいになった。

歌もうまい。(聞かせる大人の新曲を歌っていた。)

だが、

やっぱり あの頂点のときの

オーラがない。

あの触るとはじけて、

ぴんっと切れてしまいそうな緊張感。

そう あの時たしかに明菜は

スーパースターの影にある

大きなものによって輝いていた!

それは、今ない。

大人になり、打たれ強くなり、寛容にもなったのだろう。

さて、そこからが本題。

さて、問題!!

嫁にするならどっちの明菜?

誰もが今の明菜と答えよう!

オーラばりばりの明菜を

誰もが一局お手合わせ願いたい!

とは思うが、

嫁にしたいと思わない。

それが、酒器にも言えてくる。

オーラばりばりで、気を発しているぐい呑みは、

一、二度は楽しめるが、どうも疲れてくる。

ゆったりとして酔えない。

逆に、しっくり馴染んでくる酒器は

どこかスキがある。一見ふつうなものである。

コレクションは別ではあるが、毎日晩酌したいのは

今の明菜なんだな、これが、不思議と。

では、

今日もひとり晩酌。

どのカップにすっかな!

左から4番目にしよっかなっ なんて

なんかいい気分じゃん、けっこう。

嫁さん毎日替えられるみたいな・・・

 

-2001年8月7日-

スーパーアスリートの影に名コーチあり、

入来の影に、ガルベスあり。

そして、dendenの影にでんチャンあり。

ここまでが、昨日のお話。

うつわのみせDENの運営は、

妻=dendenー店長と

私=でんチャン=店長代理が

協力しあって成り立っている。

おそらくどちらが欠けても

DENは決してなりたたない。

くるまの両輪のごとしである。

品定めなどでも、鑑識眼がかなり違う。

彼女は、料理映えを一番に考える。

私は、焼き物の触感みたいなものを重視する。

そうすると、意見がまったく違う場合もあるが

両目が離れていることによって、遠近感を得るように、

その焼き物が現在、どのへんに位置しているのかが

分ってくるような気もする。

ひとりでは決してこうはいかない。

しかし、陶芸界は現在まで、こんな客観的視野をもって

生き延びてきたのではなく、むしろ

ひとりよがりな、自己満足によって

その独特な世界を築いてきたと言える。

我々も互いに趣味や感性を妥協させることでなく

むしろ好みを際立たせ、衝突しあって

感性を磨いていきたいものである。

さて、それでは、

ひとりよがりな一言だけ。いや二言、三言。

私は料理映えする焼き物を敢えて

選択しないのは、焼き物の奥義が

料理映えではないと思うからだ。

焼き物そのものが醸し出すものにこそ

その奥義があると思う。それだから陶芸がこれほど

特別に重要視されてきたのだと思う。

それでは『焼き物そのものが醸し出すもの』とは、

焼き物それ自体か?

いやいや、それも違うように思えてくる。

スーパーアスリートの影に名コーチがいるように

入来の影に、ガルベスがいるように

dendenの影にでんチャンがあるように

(そう!影の方が、でかいのだ!!)

焼き物の影にあるもの。

それが我々を魅了するのだ!

と思う。

例えば、陶工の執念。

例えば、その焼き物にまつわる伝説。

例えば、ろくろの水の清き事。

例えば、窯の神の微笑み。

例えば、私の恋ごころ。

あっ 恋ごころ で思い出した!

今夜は独身!こんなことをしてる場合じゃない。

(妻と子供はキャンプ!!!!)

 

い、い、い、いざ、いざ(←焦ってる)

いざ鎌倉!!いざ、いざ!!い、いや

うっ

うっ

うっ

う、馬が

・・・いない・・・とほほ・・・

 

-2001年8月6日-

明日からdenden(妻=店長)と子供たちは、

義兄の家族といっしょにキャンプにいく。

私は御留守番。たまには、一人で羽を伸ばすのも

いいのかもしれない。しかしずっとずっと

羽をたたんでると、いざというとき

伸びない・・・しびれてる うぅ〜

 

さて、今朝テレビで世界陸上を見た。

麻原はおしかったが、やっぱりモーリス グリーンはすごい。

それにしてもオリンピックのスーパースターの影には、

いつも一心同体ようなコーチが存在するのを感じる。

余談だが

グリーンのコーチは、身長176cmの選手しかコーチングしないそうだ。

この身長が100mを走り抜けるのにもっとも効率がいいらしい。

このコーチに言わせれば最速の条件=176cm

おれといっしょじゃ〜ん、身長176cm!お、おれって最速!!

うっ た、体重? うっうっうっ・・ ・条件外じゃ〜い。

 

さて

ほんとうに人間同志の協力というのは、

計り知れない成果をあげることができる。

選手とコーチの全人格的関係が、

巨大な力となった例は枚挙にいとまない。

ゆえにコーチが恋人、伴侶って場合もとても多いが、

選手とコーチの関係ばかりでない。

選手と選手だってそうだ。

いまやガタガタの巨人投手陣の中で、ひとり気をはいてる入来投手。

彼の今シーズンの好調の影には、

チェンジアップを教えてくれたガルベス投手がいるとラジオで聞いた。

ガルベス入来

なんか想像もつかない組み合わせだが、

1+1=2でなく -1×1=0でもなく、

-2×2=5くらいの方程式を証明するのには、もってこいだ。

ガルベスを-2にしてしまうのは、失礼かもしれないが

今やそう言っても怒る人もいないだろう。

そのガルベスだが、チェンジアップを教えてくれ!と言って

頭をさげてきた入来に、とても丁寧に熱心に教えたそうだ。

それが以外だ!それが人間関係だ!それが相性だ!

プロの投手が、同じチームの投手に決定的な教えを乞うことは

プライドが許さない場合が多々あろう。それを敢えてした入来。

それに応えたガルベス。二人はもしかして

 

 できてる?

冗談はさておき、今年入来の活躍でもしや巨人が

優勝でもすれば、その立て役者は間違いなくガルベスなのである。

 

さて、ここまでは、ほんとうは前段。

選手と選手の関係ばかりでなく、

店長と店長代理の関係も・・・というのが本論。

でもちょっと前段長過ぎて息切れ・・・

ということで、さらば今日はここまで、またあした〜

 

-2001年8月5日-

今朝、久々に仮面ライダーアギトを見た。

そう、前作から仮面ライダーは一新した。

幼児にはまったく理解不能!

うちの蒔人(7才)でさえ、

戦いのシーンのほか興味を示さない。

逆に大人が見ると非常におもしろい。

ドル箱の時代劇なんかよりも、ずっと良くできている。

ありきたりの表現を極力避けている。

映像が斬新で、ストーリーの展開にも工夫がある。

はっきり言ってすごいドラマ。

なんたって仮面ライダー アギトは、

子供が理解できない子供番組なんだから!

こういった子供ドラマでは、

日本は常に最先端を行ってると思う。まじで。

能や歌舞伎から新劇、アングラ劇に至るまで、

日本人が培ってきたドラマツルギーはすごいと思う。

勧善懲悪から実存思想や密教思想まで、どんどん

取り入れていく。禁じ手というものがない。

この伝統の劇文化を継承してきたのは、

まさに男だった・・

なのに・・・

 

さて、

逆に禁じ手ばかりが、目に付くのは

茶の湯の世界のように思える。

しかし規範のないところに斬新な越境もない。

したがって、茶道の修業をしたことない私は

決して、茶道のあり方に意見したりはしない。

ただ、ちょっと寂しいのは、

茶道が女性のものみたいになっていることだ。

もともと茶の湯は、敏腕商人たちのための

男の社交場だったのに。

いまじゃ花嫁修行のためのカルチャースクールみたいに

女の世界のものになっている

ような気がしてならない。

 

さて、

 

そこで、でんチャンは気付いた!!

そうだ!仮面ライダー!君がヒントだ!!

そう京子さんが投げたリンゴじゃ、君は!

(我々中年男子は皆↑を理解する=ダイリーグボール3号のヒントじゃい)

女性上位!

子供優先!

女子大生、女子高生の横行!

女政治家!などなど

に屈するな!

女、子供に媚びを売る文化を打破せよ!

女、子供になんか解らなくていいんだ!

それを教えてくれたのは、

仮面ライダー!ありがとうアギト!

君の勇姿と志しは、我々中年男子の憧れだ〜!

立ち上がれ!中年男児よ!!

アギトと共にこの道をいこう!

輝く黄金の道!

仕事する男の道!

 

そ、その道とは、

 

その道とは・・・

 

 

麦酒道!

 

麦酒道における心は、無心。

作法は、感謝、夢、愛。

さあ、今日からはじめよう!

麦酒道!!!!!(発泡酒もアリ。念のため)

 

こうやったら いいんじゃないかっ! っていう

意見募集!女性の意見も、もちろん聞きます!

だってほんとの男はみんな

愛する女、子供のために

死ぬんですから、我が身を捨てて!

 それこそ 麦酒道、男の道!

はよっ み、見栄きって 見栄きって まくっぅ まくっぅ・・・・・・・

 

-2001年8月4日-

お昼に近くのお寺さんにお参りした。

何を願う訳でもなく手を合わせてきた。

その寺は、多摩丘陵の小高いところで

はるか東京の町並みを見下ろしている。

建立は奈良時代。川崎最古の寺である。

その名を影向寺という。

『ようごうじ』と読む。かっこいいよね。影に向かう寺!

この寺に少年でんは、時々冒険に来たものだった。

その登り口には長い防空壕が何個もあって、

境内には今も悠然としてそびえる銀杏の巨木があったため、

なおのこと影向寺は神秘的だった。

この寺には有名な影向石という巨大な石がある。

それは建立当時、本堂の基礎石に使われたものにちがいない。

おそらく柱が立っていた部分のくぼみに水がたまり

その水が、目の病に効用があると、

江戸時代には参列者がたたなかったという。

その由緒ある寺で、少年でんはときどき本堂の縁の下に

もぐりこみ、古い瓦の破片をさがしたものだった。

(それは結構文化的遺産だったみたいで、のちに縁の下は柵で入れなくなっちゃった。)

今日お参りをしてるとき、ふと思った。

今、陶器屋となる運命は、すでにそのころ

メッセージされていたんだなあと。

水をたたえた影向石、それはうつわのシンボルじゃん。

いにしえの瓦、それはのシンボルじゃん。

そして、わたしは今、陶器屋さん。るんるん。悪いの?

 

 

-2001年8月3日-

昨日、一昨日の続き。

さて

1.服を脱がせる

2.エクスタシーの声を聴く

それからが、ほんとは一番大事。

3.育児です。

なんと道理にかなった道筋でしょう。

陶の道は、人の道なり。

自分でも感心してしまいます。

まあ、育てるというのは、

陶器の場合よく言われることですね。

今日は、DENが品物と

一緒にお入れしているしおりを載せておきます。

子育てのご参考にしてください。

それと上のしおりには書いてませんが、

陶器をよく撫でてあげることですね。

そうすると陶器に正気がしみ込んでいきます。

その気を蓄えて、陶器は成長するのです。

よい音楽を聞かせるってのも、

あながち間違いではないように思うんですが・・・

 

-2001年8月2日-

なんでも性的なものに結び付けるのは

フロイトに傾倒しているように思われがちですが、

むしろユングに興味があります。

けれど、性的なものには、

多くの人に共通したシンボルがあって

とても比喩しやすい上に、

直感的に理解してもらえる。

だから、性的なものに関連づけると

説明しやすいのです。

 

さて、

昨日は陶器に関して、服を脱がして『見る』ことを

お勧めしましたが、今日は『聴く』ことをお勧めします。

店長=denden=妻には、

よく、いや〜な顔で見られるのですが、

私は、陶器屋さんに行くと、どうしても陶器を

指ではじいてしまいます。

陶器が鳴る音を聴きたいからです。

左手の手のひらに載せて、右手の中指で

陶器の腹のあたりをはじくのです。

ピンッ

形や厚みで、いろいろですが、

好みの音、思った通りの音を出す陶器を

私は好みます。好きになれない陶器は、

にごった音をだすように思えるのです。

 

陶器は適温でうまく焼き上がったとき、

とてもいい音を出すように思えるのです。

そこで私的なセオリーがあります。

エクスタシーに達した陶器は、

いい声で鳴く!

(陶器のエクスタシーとは、絶妙な焼きのこと)

いい声というのは、たしかに主観的なものです。

けれど、陶器を手にするたびに、鳴らしていると

だんだんと好みが養われ、やがて音に

普遍性を感じるように思えるのです。

私もデパートの個展などではめったにやりませんが、

ときどき

右手の中指が

ウズウズしてます。

ぷるぷる

かわいそうな中指。

デパートの個展なんか嫌いだ〜(って中指)

-まねして店員にしかられても責任は負いません-念のため-

 

-2001年8月1日-

ものすごい疲労のなかで書いてます。

きのう書きかけた陶器におけるエロティシズムに関して

思うことを書きましょう。

ときに

陶器を見て、

ぞくっとする時がある。

まだ、

性のしくみを知らない少年のころ

大人の女性の白いうなじを見て、

ぞくっとしたときと

同じような感覚。

 

見ていけないものを見てしまったような・・・

何か大事なものに続く扉を開けてしまったような・・・

自分しか気付いていない神秘かも、こりゃ・・・って感じ。

 

大人の女性のうなじ(あんまり大人になり過ぎた場合を除く)も、

陶器も

普段すまし顔で、実は隠された奥義を持っている。

 

それに通じるためには、よく見ることだろう。

頭で考えず、目で見ること。

作家名や作品名を気にせず、とにかくよく見る。

つまらない陶器のかけらにも、ぞくっときたことが

何度かあります、私。

ぞくっとくるとき、頭は理解せずとも

身体が、あるいは魂は奥義を知るんだと思います。

 

女性のうなじから、滴り落ちる汗が、ひとすじ。

白い洋服のなかに消えていったのを見た少年でんは、

その時、ひとつ奥義を知った、のっ???かしらん

 

さて

陶器は、ふつう服を着ていません。

だから、もろ肌をいつでも見れるし、

触りまくることもできます。

でもでも、

陶器はふつう日常の中では、あたかも服を

着てるかのように、奥義が隠されています。

それは陶器が自分で着た服ではあ〜りません。

私達が着せてしまった、日常という名の服ですぅ。

 

ちょっとホッとしたとき、

お気に入りの陶器の服を

ゆっくり、ゆっくり ときに激しく!

脱がせてあげましょうね。

おれって変態かなあ?

陶器のエロティシズムに関して語るつもりが、

陶器の脱がせ方みたいになってしまった。う〜ン、疲れてる。では。

 

現在の日々でんへ行く?

過去のでんチャン2001年11月に行くの?

過去のでんチャン2001年10月に行けば?

過去のでんチャン2001年9月に行くん? 

過去のでんちゃん2001年8月へ行くう?

過去のでんチャン2001年7月を行くか?

 

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