2001年12月の
日々のでんチャン

現在の日々でんへ行く?

過去のでんチャン2001年11月に行くの?

過去のでんチャン2001年10月に行けば?

過去のでんチャン2001年9月に行くん? 

過去のでんちゃん2001年8月へ行くう?

過去のでんチャン2001年7月を行くか?

-------------------2001年12月30日--------------------

昨日水前寺清子の“365歩のマーチ”をラジオで聞いて思った。

 

一日一歩三日で三歩、三歩進んで二歩さがる〜

 

ってことは〜三歩進んで二歩さがるんだから、5日で1歩じゃん

元旦で一歩だとすれば、今日は364歩目ですが、

実際前に進んだ距離は74歩分なのだが、

あと一歩はもちろんさがる一歩だから、

明日12月31日で73歩分ということになる。

だからどってことないのだが、

暮れの二三日無理に頑張っても、

さがる歩みになることが多いんじゃないか?っていう

自己保身的理屈でもって今年も締めくくり!

新春は8日から日々でん開始!

お店は10日から始めます。

来年もよろしくお願いします。

 

 

-------------------2001年12月28日--------------------

昨日、

欧米人もアラブ人もアジア人も、同じ釜の飯を喰おうよ。

って書いたが、その通りを表現したような愉快な本を今日、発見した。

本屋に入ったら、目の前にいっぱい積んであったのだ。

『世界がもし100人の村だったら』という本。

子供の絵本みたいに出来ているが、子供といっしょに大人が楽しむのが

一番いいと思う。素敵な本だ。

左脳でぼんやり記憶していたことを、右脳で再び理解するような楽しさだ。

紀伊国屋書店のwebでは、今週の第二位だった。

マガジンハウスらしいビジュアル系のヒット作。

 

歌や詩や絵は、右脳を刺激して理解を深める。

さらに繰り返し歌ったり、見たりすることが、ある種の響きを生む。

その響きが日常の自分自身の行動を変えていく。

そういうことが、本当に理解するということなのだろう。

ほんとうに好きな歌を何度も何度も繰り返し歌い続けるという

全く単純な行為に、世界平和の礎があるんじゃないかと思う。

たとえその歌が、“星条旗よ永遠に”でも“コーラン”でも

ほんとうの愛は、響きあうと思うのです。

 

-------------------2001年12月27日--------------------

今夜NHK総合で、日本人の起源をテーマにした番組の最終回を見た。

渡来系の大移動。

渡来系と縄文系民族との争い。

渡来系民族と縄文系民族の平和的融合。

我々日本人の祖先は、互いに相手の民族の風習や技術を

尊重して、融合し、決して全面的な衝突を起こさなかったようだ。

この両極がうまくバランスして、今も日本人の

遺伝子に潜在しているのが事実らしい。

 

同時多発テロリストの一人は、学生時代フランスで

大人しいふつうの学生だったらしい。

だがフランス国内のアラブ系の移民は、事あるごとに迫害にあい、

それによって片寄った宗教に傾倒するようになった

らしいと今日の新聞に書いてあった。

今年起きた惨劇が、近い未来 逆に両民族の融合をせしむ教訓に

なってはくれないものかと思う。

徹底した勝利や決定的な敗北には、未来がないと私は思う。

今日ラジオの人生相談で、心理学の先生が

いいことを言って相談者を説得してた。

『まず、いっしょにみんなで食事でもしてみなさい。

昔から同じ釜の飯を喰うなんていいますが、

まんざらウソでもないんですよ』

そう、渡来系民族と縄文系民族が日本という小さい国土で

同じ釜の飯を喰うことで、すっかり融合してしまったように。

欧米人もアラブ人もアジア人も、同じ釜の飯を喰おうよ。

こんなに地球は小さくなってしまったのだから。

とりあえず、おかずは別々でもいいから。

 

-------------------2001年12月26日--------------------

一昨日、

若い頃、キリストの生誕を祝うという本来の目的を逸した

日本のクリスマスを嫌悪していた時もあったかもしれない。

けど今は、そういうプロパガンダに乗ってポジティヴに

楽しんだ方がいいかも!って思ってきました。なんて

書きましたが、この言葉自体が逆説となっていますね。

というのは、

クリスマス自体がそもそもプロパガンダにほかならないからです。

キリストの生誕は、もともと謎であって、どこにもその時節を示す

記述はみつからず、後にコンスタンチヌス帝あたりがゾロアスター教系の

流行りのお祭りをキリスト生誕に当てはめたという説が有力だからです。

そう、もともとプロパガンダなのです。

ひとつこの時期(12/25)の設定に重要な意味があるのは、

冬至の時期ということです。

この日から昼の長さが段々長くなるという意味合い。

つまり“光あれ!”なわけです。

この一年なんか暗い感じでしたが、

どうにか冬至は過ぎて、明るい光をいただきたいものです。

そういう意味では小泉さんにも“光あれ!”的な強力なプロパガンダを

期待するものであるわし。

 

-------------------2001年12月24日--------------------

今世紀最初のメリークリスマス!

私的にはクリスマスの思い出はあまりないけど、

妻と最初のクリスマスは忘れられません。

妻の勤め先まで迎えにいって、その場で

ドアロック (key in the car)してしまって、

彼女と電車で自宅まで帰ってから、

大遅刻で予約のレストランに駆け付けたこと。

そのとき彼女をはじめて両親に紹介することになったのも。

この大失態にも、彼女は一言もグチも言わず

楽しいクリスマスを過ごせたのでした。

まったくドジな話しですが、今となっては良き思い出です。

ちなみに今日は、長女の10才の誕生日でもあります。

10年前の今日が、私の二番目に思い出深いクリスマス。

若い頃、キリストの生誕を祝うという本来の目的を逸した

日本のクリスマスを嫌悪していた時もあったかもしれない。

けど今は、そういうプロパガンダに乗ってポジティヴに

楽しんだ方がいいかも!って思ってきました。

みなさんのクリスマスも

何年先までも輝いてるクリスマスでありますように!

メリークリスマス

      in 2001

トップへ

-------------------2001年12月22日--------------------

コンビニで、占いの本を買った。

今年の夏映画にもなった阿倍晴明の占いらしい。

表紙は、どぎついが好きなタイプじゃ〜

ちなみに私は、表紙にだまされやすいタイプである。

表から生年月日で割り出すと、白雲星とかいう運勢となる。

結構占いとかが好きで、ときどきこの類いのものを読んだりする

たかが500円ばかりの占い本に、ここまで言われたことははじめてである。

では。

トップへ

-------------------2001年12月21日--------------------

今日は新宿に行く用事があって、ついでに吉田明一門の展示会を見て来た。

気に入った土鍋があって、しかも手頃な値段だったので、

自分自身に一年お疲れさま〜の意味で思いきって買った。


↑クリックすると拡大画面

古松淳志さんというお弟子さんの作品。

径が20cmで8000円だった。

家族4人でおでんとかには、まったくむかないけど、

妻とふたりで、子供が寝たあと晩酌するにはいい大きさか。

燗をつけるのに使っても悪くない。いい買い物をしたように思う。

吉田明さんは、近頃は七輪陶芸やミニ窯陶芸で、

かなり有名になってしまったが、朝鮮古陶の研究、再現に尽力し、

陶芸界でも“奥多摩に吉田明あり”的な名声と技と発想を

兼ね備えた陶芸家である。吉田先生の作品もはじめて

まじかで拝見したが、すばらしいものだった。しかし

残念ながら、価格が私に買わせなかった。ちょっと高い?

いつか買えるだろうか?

まあ

しかしながら、世の中を見回せば価格などというものは、どうでもいい錯覚に陥る。

県住宅供給公社 14億円の横領事件とはどういうことなのか!?

公社は14億の金が移動していることにどうして気が付かないのか!?

まったくもって不可解である。

私は、会社の経理係なのだが、

先月いつも給料を入れるのと違う別の自分の口座に、給料を振り込んでしまった。

すかさず今月は、“引き落としできません”通知のラッシュである。

普通は、そういうものだろ!よほどあぶく銭で溢れてるとしか思えん。

(チリに送金しただけに、チリも積もれば山となる?はぁ?)

8000円の土鍋を買うのに、恐い妻の顔を思い浮かべてしまう自分もちょいと悲しいけど…

いい買い物をした喜びなんて、そんな輩にはわからんだろうなぁ。

トップへ

-------------------2001年12月20日--------------------

大きな声では言えないのだが、

今日はの発表です。

↑クリックしてみてください!

一番自然体のしんちゃんにしました。

しんちゃんは、無心にして酒を招く。
酒は無心にしてしんちゃんのぐい呑みへ。
しんちゃん呑まんと欲すれば 酒来たり。
酒来れば即ちしんちゃんは呑むよ〜

 

トップへ

-------------------2001年12月19日--------------------

大きな声では言えないのだが、

なに〜っ?

し〜っ もう だめだめし〜っ。

ほんとに内緒のはなしなんだが、

うちのHPのアクセスカウントのことなんだが〜

あっ そうかっ

し〜っ!ってだから〜ちっちゃな声で〜
たぶんこの日々でんに毎日来るような方は、
知っていると思うが、次のゾロメまで、
あと1000カウントとちょっとになっとる。
と、言うことは、年内にありやなしやという
微妙な線だが、年末は皆忙しいから皆あまりカウントを
気にしていないじゃろ〜。
そこで、今回はこの日々でん常連の方に、
大ヒントをお教えしよう!

私の勘では、大晦日と元旦があやしい。


そして賞品なのだが、これも作家にまだ内緒なので
プレゼントに出したと知られればきっとわしゃ叱られるのじゃから、
大きな声では言えないのだが、せちがらい年末に
パッーと明るくなるように、思いっきりフンパツしっちゃったのが

コレ!
熊本栄司先生の
飯碗二客組じぁぁゃ〜

やっべっ つい興奮して大声だしてもうた。はぁはぁはぁ〜落ち着いて落ち着いて。


これなのだが、決して画像をクリックしては
いけません。大きくなってしまうからにゃ。ふむふむ。

では、くれぐれも内密に では。

 

あっとそれから、新規入荷品アップしました。見てね

トップへ

-------------------2001年12月18日--------------------

こないだあたり、今年を象徴する漢字として、

名の有る住職(たしか京都の清水寺)がマスコミまじえて、書いていたのは

という字。

たしかに、そう言われてみれば、いいような気もするが

なんか違うような気もしてくる。

戦国の世に、茶の湯が隆盛したように、現代も癒し系が大人気だ。

対極的なムーブメントが大きく目立つのは、

間違いなく時代が大きく振幅している証拠。

激動する政治や経済を鳥瞰しながら、

冷ややかに己自身を見つめられるまっしろな精神を保つこと。

それが今求められることだと思う。

戦場の一兵士として死すとも、

時代を鳥瞰する天使のよう存在でもありたい。

 

日本人の感性を漢字一字では、満足させられないものが多分にある。

もっともっと日本人は情緒的なのだ。

せめて、ひらがな6字。漢字で4字。

もののあわれ(諸行無常)

をほんとうに感じられる時代

と言っていいかもしれない。

 

トップへ

 

-------------------2001年12月17日--------------------

パクリって言葉がある。

けっこう好き、パクリって言葉。

さて、

ピクミンのCMソングが好きだからって

あんまりなめた真似をしてはいけない。

良く噛んでたべましょう!

↓クリックしませふ

では

トップへ

-------------------2001年12月15日--------------------

うちは陶器屋さんですが、なんだか最近はギャラリーみたいなこともしてる。

今年は4回ほど展示会をした。おかげさまでそこそこの反響を得ているが、

やっぱりギャラリーでは決してない。

市井のうつわ屋として、

日常的に大事に使ってもらえる良質のうつわを提供していきたい。

思えば2年前の今日が、オープンした日ではなかったろうか。

わ〜い わ〜い 2周年おめでとう!(自分で言ってどうする!)

ありがたいことにメディアにたびたび掲載されて、知名度もあがってきた。

このホームページも、来客数がしだいに上がってきています。

不況の波に翻弄されながらも、なんとか続けていかれるのは、

お客様とホームページの訪問者の皆さんのおかげと思っております。

さて、

これからのお店の指針になるキーワードは、

ライフスタイルの提案!だと思ってます。

目先のお客様のニーズばかりを追っかけるのではなく、

こちらから積極的に、新世紀にふさわしい心豊かな生活スタイルをサポートしていきたい!

そのためには、お客様といっしょになって創意工夫するってことだと思っています。

新世紀を象徴するメディアであるインターネットは、双方向の情報交換が特性です。

まさにその特性を本来的に持っていたのが、小さな小売り店だったはず。

が、

大型店鋪に押されて、その存在意義を忘れかけているのも、

DENと同じような規模の小さな小売り店なのかもしれません。

しかしながら、生身のからだと心で、お客さまと一対一で接していける

小さな小売店こそ、これから一層求められるように思うのです。

そう言えば、そんな事をこのお店において象徴的に具現化してるのが、

しゅふDEしぇふだと言えるかもしれません。

クリスマスメニュー今準備中!ご覧下さい。

ちょっとだけ先に!


↑クリックすると拡大画面

 

トップへ

 

-------------------2001年12月14日--------------------

昨夜は詩吟のお稽古で酔っぱらってしまいました。

飲んだら書くな。書くなら飲むな。

飲みの日には、どうしたって書けません。

さて、

詩吟をやっていてよく思うことなんですが、

詩吟の節調は、英語では不可能ということです。

まあ、たぶん演歌も無理でしょう。

日本語には子音だけの発音がないので、

どんな言葉でも語尾を伸ばして、余韻をひくことができます。

英語など子音だけの発音を使う言語は、それが不可能なわけです。

かわりにリズムの方を重要視するわけです。

子音を使う言語は、音の組み合わせが多くできるので

比較的同音意義語が生まれにくく、

日本語のような子音のみの音をもたない言語は、

非常に同音意義語が多くなる。

その多い同音意義語をアクセントや文脈で理解させるので、

自然とアップテンポのリズムを避け、言葉が本来持つアクセントを

崩さないような配慮から、比較的単調な節回の音階に乗せて

歌を歌うんだと思います。

そして、言葉のもつ雰囲気みたなものを非常に大事にしてきた

民族性を感じずにはいられません。

歌田ひかるの歌は、好きですが二三度聞いて、

言葉を理解するのは私には不可能です。

アクセントが日本語でないからです。

焼き物や工芸に関しても、日本人はあえて選択肢を

増やさなかったように思います。

織部、粉引、焼締など主流の焼き物に執着して

その深みへと向かう傾向が強かったと思います

が、

最近では焼き物も 歌田ひかる状態へと向かっています。

それは良い事でもあり、やっぱり悪い事でもあります。

日本人の伝統的な感性をないがしろにしては、

決して新しい焼き物はありえません。

日本の歌が、いろは37文字の子音と母音のセットの音に

制限されて発展してきたように、

焼き物もまた、日本の海洋性の土と風土に

適応して発展してきたのだから。

温故知新とその逆、

知新温故の繰り返しのうちにしか、

焼き物や工芸の未来はないと思うのであります。

かなりあたりまえの結論じゃな〜

おわり。

トップへ

 

-------------------2001年12月12日--------------------

昨日はしゃべりすぎた。

少し反省。

今日は寡黙に。

 

入れものが無い

 両手で受ける
             -尾崎放哉-

 

淋しいぞ一人五本の指を

    開いて見る -尾崎放哉-

 

茶を飲むうつわも、料理を盛る皿も、壁を飾る陶板も、

ほんとの源は己自身の手だと思い知るべし。

なぜだろ、私は山頭火より放哉 が好き。

トップへ

  

-------------------2001年12月11日--------------------

今日突然思ったのだが、

私は、以前CM屋で、今は板金屋で陶器屋なのだが、

ほんとうに向いてると思うのは骨董屋である。

古い物の言葉がわかる・・・と思う。

古き良きものは、語りかけてくる。

作家ものの陶器も量産品にない雄弁さを持っているが、

骨董に比べると比でない。

陶芸家の窯から出て来たばかりのものは、

半分くらいしか出来上がってないような気がしてならない。

確かに長い年月の愛用を経ると、骨董と呼べるようになるものを、

厳選して売ってるつもりでいる。

それに、店に植物といいっしょに展示して、

多くのお客さんに触れられると

陶器はどんどん育っていく。

陶芸家の工房にある時よりも、ずいぶん立派になる。

が、

陶器屋の仕事は、そこまで。

娘を嫁がせる父親の心境に近いかもしれない。

骨董が持っている異様なまでの気を放つ器物を扱いはしないし、

扱ってもDENのお客様には奇妙に思われるだけだろう。

よく妻と意見が別れることに、“料理映えがする、しない”の問題がある。

その前提に、料理が主でうつわが従って関係が想定されているのだが、

私が思うのは、その逆。

うつわが先で、料理が後であったはずだと思う。

うつわが先に置かれて、その上か中に料理が入れられるのであって、

決してその逆ではない。

はじめに言葉ありき

よろしく

はじめにうつわありき

なのだ!

うつわが料理を殺すのではなく、

いつだって料理がうつわを殺すのだ!

うつわは語りかけてくるが、料理は言葉を知らない。

あえて言えば料理は簡単符しか言わない・・・と思う。

あぁ〜 とか。

おぉ〜 とか。

うつわがあってはじめて料理は、詩的な言葉になるのだ。

ああ、骨董屋になってうつわの言葉を聞きながら、

朽ちていきたいものだなあ〜

 

ちなみに今回の企画展では、
多くの陶板を展示しているが、
陶板は、鏡に似ていると思う。

料理ごとき汚れは退け、
自らを神聖に保てども
偏見なく清濁いづれも映し出す。

見る人の心を映す鏡であり、
歳月を経て家の一部になれば
今度は、家の歴史を映し出してくれる鏡。

“壁を飾る陶”っていうお題目は、大ウソ!
これは“うつわが料理を殺す”という言葉と
同じ程度の大ウソだ!

壁に掛けられる陶板は、
決して壁を飾るものではない。

陶板が壁を飾るのではなく、
壁が身体として陶板を受け入れるのだ。


熊本栄司作

壁に掛けられた陶板は、実は

家の歴史を記述する

記憶装置なのだ!

うそぶくのもいい加減にしろよって

風当たりも感じるので、今日はこれで。

ああ、骨董屋さんになりたいなあ・・・

トップへ

 

-------------------2001年12月10日--------------------

今日は風もあったためか、空が綺麗に澄み渡って、

遠くの山並まで見えた清清しい日でした。

そんな良き日に

お店にはネットのお友達のまり2号さんとこねぎさんが

いらしてくださったそうです。私はお会い出来なくて残念でしたが、

女同志のお話もあろうことかと。

それでは

まり2号さんが持って来てくださったすばらしい作品を

お見せしましょう。

ジャーン!

ジャーン!

ジャーン!

ジャーン!

ジャーン!

 

 

なんてね。

↑クリックしてね。

妙な生き物が脇を固めてますが、気にしないでください。

まり2号さんの見事なミニチュアと葉っぱのお皿です。

←くるくる回ってクリックしてくれ〜と
言ってるようでも無視しましょう!

こねぎネーサンもよろしく→こねぎん

手を抜いたキャラのようですが、

おやっ?

やせっぽち?うんっ?江戸っ子?お〜あね〜っ

日本一!!

って感じのこねぎんでした。

トップへ

 

-------------------2001年12月7日--------------------

今日ネット検索で、三つの言葉たちに出会った。

ひとつは、種田山頭火の句

まっすぐな道で さびしい

 

二つ目は、

中原中也の詩。

 

汚れつちまつた悲しみに…

汚れつちまつた悲しみに

今日も小雪の降りかかる

汚れつちまつた悲しみに

今日も風さへ吹きすぎる

 

汚れつちまつた悲しみは

たとへば狐の革裘

汚れつちまつた悲しみは

小雪のかかつてちぢこまる

 

汚れつちまつた悲しみは

なにのぞむなくねがふなく

汚れつちまつた悲しみは

倦怠(けたい)のうちに死を夢む

 

汚れつちまつた悲しみに

いたいたしくも怖気(おぢけ)づき

汚れつちまつた悲しみに

なすところもなく日は暮れる……

三つ目はM・エンデ作「モモ」からの抜粋。

「なあモモ、」と彼(掃除夫のベッポ)はたとえばこんなふうに始めます。「とっても長い道路を受けもつことがよくあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」

彼はしばらく口をつぐんで、じっとまえのほうをみていますが、やがてまたつづけます。

「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードを上げてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息が切れて動けなくなってしまう。こういうやりかたは、いかんのだ。」

ここで彼はしばらく考えこみます。それからやおらさきをつづけます。

「一度に道路全部のことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひとはきのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」

またひとやすみして、考えこみ、それから、

「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」

そしてまたまた長い休みをとってから、

「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路が全部終わっとる。どうやってやりとげたのかは、じぶんでもわからん。」彼はひとりうなずいて、こうむすびます。「これがだいじなんだ。」

 この三つの言葉たちは、同じ道に立っているように思えたのだ。

が、

ベクトルの方向が、まったく違う。

山頭火は、下向き。

中也は、後ろ向き。

エンデは前向き。

だからどうだってことは、ない。

ネットの検索は、おもしろい。

妙な発見をさせてくれる。

世界的文豪の次に、無名の男のひとりごとが出てきたりする。

さて、

今開催中の

『壁を飾る陶展と大きなうつわ展』出品作品をHPに掲載すべく、

整理していますが、待切れない人にちょっとだけ。

例えばここにランダムに掲載した4つの作品が、

ここDENにて隣同志に並べられる出会いを大事に考えたい。

偶然性を運命的な出会いに育てあげることが、好き!

トップへ

 

-------------------2001年12月6日--------------------

本日DEN二周年特別企画『壁を飾る陶展と大きなうつわ展』がはじまりました。

寒い雨模様の中、多くのお客様がいらしてくださり、たいへんうれしく思います。

ありがとうございます。

ご来店できないお客様にも購入できるように、

写真を掲載するようにしようと思っています。

どうか楽しみにお待ち下さい。

ただご来店のお客様優先となりますこと

ご了承ください。

もちろん

よい作品をDENに届けて下さる陶芸家のみなさんを

妻と私はとても誇りに思っていますが、

それ以上に、DENをかわいがって育てて下さる素敵なお客様を

とても誇りに思います。ほんとにありがとうございます。

 

焼き物の気迫に負けずはね返す
     豪傑ぞろい DENのお客は 
-den-

 

トップへ

-------------------2001年12月5日--------------------

本日はネットの友人のそらさんと店長のお兄さんのタケちゃんに

準備の手伝いをしていただいた。

二人とも、お仕事じょうずな上に、おもしろいキャラなので

とても楽しく作業が出来て、はかどりました。

しかしまあ、ほんとに多くの作品が集まりました。

各作家さんに当初お願いした量の1.5倍くらい集まっていると思います。

 

焼き物の大きな気迫 帆にうけて

 行ってしまわん よその海へと!

                        -den-

 

めまいがするくらい気迫を感じます。

作品の撮影、更新は数日かかるかもしれません。

では。

トップへ

-------------------2001年12月4日--------------------

けっこうへろへろです。

いま、こんな状態です。

だいぶカタチになってきました。

手前味噌ではありますが、今世紀最大の企画展です。

まじ見ごたえあると思います。是非是非!!

トップへ

-------------------2001年12月3日--------------------

展示会の作品が、一斉に届いてこういう状態です。

妻と共にシックハックしています。

ずいぶん疲れてしまったので、今日は帰らせてもらいます。

トップへ

-------------------2001年12月2日--------------------

とうとう師走。今12月2日の朝、天気がよい!

テロがあって、戦争があって、

それでも昨日はおめでたいことがあって、

もうじきに、今世紀最初のクリスマス。

大きく時代が変わるのが、身に滲みます。

ある特別なエネルギーが地球に作用しているかのようです。

昨日は不思議な月を見ました。

(いつも月を意識して探してると、ビルが立ち並ぶ市街地でも、

すぐ見つけられます。時間で方角と高さがわかるようになります。)

こんな月です。

薄雲のなかにぼんやり浮かぶ淡い月。

それを分割するような黒い影。

なにか不吉なものに感じそうになって

慌てて真っ白な気持ちで見直した。

見直せば、なんと美しい光景だろうか。

午後6時くらいだったか、ここ川崎あたりから

見ると、東京の方角に見えるその月は、

おおきな竜が、大きな玉を持って天へと飛翔するように

見えるではありませんか。

おそらく、黒い影の正体はきっと飛行機雲なのだが、

こころが竜と思えば、竜でよろしいのだ。

私は決して右翼ではありませんが、

多くの人の大きな希望と共に、待ち望まれて生まれた人には、

凡人と違うエネルギーみたいなものがあると思っている。

生まれてきたのは女の子だけど

多くの人の敬愛は、この子に大きな慈悲の心を育てると思う。

その子が成人したときには、今度はその子の無限な慈悲で

多くの人が癒されるのをほんとうに祈る。

 

トップへ

 -------------------2001年11月30日--------------------

富山の陶芸家 海道貴哉さんから企画展のための

作品が送られてきた。

それを荷ほどきしていたら、零時をすぎてしまった。

既に師走へ突入しています。

師走のイメージにも、ぴったりの海道さんの陶板↓


↑クリックすると拡大画面

題名は『煙りで踊る精霊』!

ほかにもアンモナイトやトーテムポールの陶板などなど

海道ワールドが花開いています。

そういう意味ではこの『煙りで踊る精霊』という作品は、

海道作品を象徴的に位置付けている。

作品が生まれるヒストリーのような源作品だ。

創作活動に非常に自由に取組んでいる芸術家が、

はからずも創作のプロセスを作品にしてしまうということは、

しばしば見られる。

が、

当の本人は他人に指摘されてはじめてそれと気付くのである。

無意識の深淵からふつふつと沸き上がってくる煙りを見て

非常に懐かしい思いに駆られているに違いない。

 

ああ、久しぶりだね。

あなたは誰だっけ?

 

けむり:ああ、ほんとに久しぶり

私はあなたよ。

 

トップへ

 

-------------------2001年11月29日--------------------

今日は、常滑から石水窯の稲葉さん(米紀さん、安信さん親子さんが

DENにいらしてくださった。

大きな穴窯での多数の作品を、トラックを走らせてわざわざ

DENに持ち込んでくださった。ありがたいことである。

みごとな急須をはじめ、穴窯特有の焼締の妙を見せてくれる作品を

ずらりと拝見して、いいところを買い取らせていただいた。

特に今回置いていってくださった下の写真の壷は見事。

幾度となく思う事なのだが、

どんなに作り手が異なっていても、

同じ窯で焼かれたものは、薪をくべた者たちが同志であるのと同様に、

同じ雰囲気を持った同志である。

あたりまえのことだが、時々再確認する。

 益子に、後藤義国さんレジーナ.イワキリさんという夫婦がいる。

別姓を名のっているので、そうと知らない人は、夫婦などとは夢にも思わない。

なのに、別々の作品を見て、それぞれ気に入って後藤さんとレジーナさんの作品を

同時に選ぶお客さんが非常に多い。不思議なことである。

もちろん、この夫婦は同じ窯を使っている。

同じ穴のむじなという言葉があるが、

ある夫婦や親子や兄弟や親友は、

同じ窯の焼き物というべき

(ユングいわくの)共時性のようなものを有している。

極端な例え話をするならば、

同じ窯の焼き物が、

一度は離ればなれに売られようと、かならず再び出会う!

というような共時性ことだ。

そうそう、

小林秀雄

青山二郎

白洲正子

などはまさしく同じ窯の焼き物であろう。

http://www.buaiso.com/hito/kokoro/kokoro.html

参照までに↑

では。

 

トップへ

現在の日々でんへ行く?

過去のでんチャン2001年11月に行くの?

過去のでんチャン2001年10月に行けば?

過去のでんチャン2001年9月に行くん? 

過去のでんちゃん2001年8月へ行くう?

過去のでんチャン2001年7月を行くか?