2002年1月
日々のでんチャン

現在の日々でんへ行く?

過去のでんちゃん2001年12月に行く?

過去のでんチャン2001年11月に行くの?

過去のでんチャン2001年10月に行けば?

過去のでんチャン2001年9月に行くん? 

過去のでんちゃん2001年8月へ行くう?

過去のでんチャン2001年7月を行くか?

-------------------2002年1月31日--------------------

一週間くらい前だったか、渋谷の黒田陶苑で“大酒器展”なるものを

覗いたが、お目当ての荒川豊藏や小山冨士夫は見られなかった。

ほかのものも、有名陶芸家の作品で堂々としたものだった。

しかし、私に言わせれば、

このお値段なら、ほんとの骨董品を買いたい。

現代の有名陶芸家のものより、

いく代も時代を超えてきた

無名の陶工の良品が私は好き。

 

時空は四次元だ。

三次元のものが、四次元のものに勝てるわけがない。

そう、骨董は四次元に存在してる。

しかし、

陶芸家という、ほんとの錬金術師は、

時間軸を使って轆轤を回し、

窯というタイムマシンの中で、

時間粒を作品に積もらせるのを狙うのだが、

これを知っている人は少ない、たぶん。

 

-------------------2002年1月30日--------------------

無量寿というお経の中に

智恵慈悲方便との三種の門をして般若を摂取す

と言う言葉が見られる。

私は仏教の専門家ではないので、詳しいことは

知らないけれど、

智恵だけでも、ダメ。

慈悲だけでも、いかんぞ〜。

方便だけでも、う〜ん。

この三つが、充分備わってはじめて悟りに到る

ってなことだろう。

智恵慈悲はだいたいお察しの意味だが、

方便は仏教的には、一般に

“相手の立場に立って、相手の状況に合せて法を説く事”でしょ?

 

さて、

本国の外務大臣は、非常に智恵があったと思う。

言ってることは、おそらく真実でしかも正当であった。

しかし、慈悲の心に少々欠けていたのではなかろうか。

いかに正当でも、相手の気持ちを察して悲哀を共にし、

生み出していくような姿勢に欠けていなかったか。

それに、方便を軽んじたのではあるまいか。

まさに

“相手の立場に立って、相手の状況に合せて法を説く事”

を軽んじていたと私は思う。

しかして、

昨夜の小泉首相の会見には、智恵慈悲方便も感じた。

辞する田中さんに対する感謝と配慮を感じた。

この首相はもしかしたら、ただものではない。

 

-------------------2002年1月29日--------------------

ヨコハマナガゴミムシって知ってますか。

知ってるわけありませんよね。

DENにほど近い鶴見川の河川敷にしか生息しない貴重な虫だそうで、

今開発計画中のトンネル工事をすれば、その虫はまず間違い無く

絶滅してしまうだろう と二三日前の新聞に載っていた。

その場所は、サッカーワールドカップのために建設された

横浜国際競総合技場の近くで、今急ピッチで

ワールドカップにむかって整備が行われているとこらだ。

私としても、

できることなら貴重な虫を保存していただきたいものだと思う。

土をほじくり返して道路やトンネルを作ることが、

本来開発ではない。

仏教の言葉では、開発はカイホツと読み、

人の心の中の仏性を開き見い出すことです。

つまり自然のもつ良きところを

再発見するという意味にもとれます。

自然の中に埋もれてる虫の絶滅を救う為に、

トンネル工事の計画を中止して、

一層創造的な開発をしてほしいものです。

 

ところで

ヨコハマナガゴミムシ

あまりに名前が貧相です。

ガを抜いて、ヨコハマナゴミムシってーのに

変えませんか!市民の同情を買うためにも。

 

-------------------2002年1月28日--------------------

一昨日、“可憐”と言って子供の女性のもつ純粋性のことを

書いたが、今日読ませてもらった田口ランディさんのコラムに同じようなことが、

書いてあったので、とてもうれしくなった。

抜粋させてもらいます。

★★田口ランディのコラムマガジン★★2002.1.25

「はだしのゲン」の子供力

知人から「はだしのゲン」全巻を譲り受けた。

(略)

 全七巻を一気に読み通して、私は二回ほど泣いた。

 

 読み終わって、私は全くこの漫画を自分が誤解していたことに気がついた。

「はだしのゲン」は戦争漫画であると同時に、子供を描いた漫画だった。私に

は「子供を描いた漫画」としての印象が強く残った。

 

 ゲンは小学校二年生、ということはまだ七歳か八歳である。

 

 以前に私はスウィッチという雑誌の鼎談で「理想の男ってどんな男か?」と

聞かれて「本当にすてきな男は大人の男には存在しない。小学校三、四年生く

らいまでの少年の中に、もっとも純粋な男性性が存在しているような気がする」

ということを語った。

 

 そうなのだ。六、七、八歳くらいまでの男の子が、もっとも男としてピュア

である。このような年ごろの男の子の中に、純粋な正義感、純粋な他者への愛、

純粋な思いやりを垣間見て、しびれてしまうことが多々ある。ひたすらピュア

な男の魂とでも言うべきものだ。

 

 それが年ごろになり自我が芽生え、思春期を経て大人になると、どうしよう

もなく濁るのである。しょうがない。この世は資本主義社会であり、男は否応

もなく競争の中に巻き込まれるのであるから、純粋なままではいられない。

 

「はだしのゲン」で表現されていたものは、まさに男の子の魂だった。老人力

というものがあるけれど、この漫画は「子供力」の漫画なのだ。

(略)

抜粋者:色文字

さすがランディさんだ。

わたしが“可憐”などと言って、あいまいで、軟弱な言い方をしたのに対して、

ランディさんは、子供の純粋なパワーを『子供力』とズバリと言い切った。

で、でもね、

男の私は、大人になる前の女性がもつ純粋性を、『子供力』と言わずに

あくまで“可憐”と言いたいのだ。

流行語みたいなワードにしたくないのです。

さて、

個人的な意見にすぎないかもしれないけれど、

私は、中高生の茶髪には、いっこうに“可憐”さを感じない。

“まだあげそめし前髪”に宿る純粋性を

おじさんは、“可憐”と言うのです。

容姿を言っているのではなく、

自分自身を着飾る以前の純粋な精神性を言ってるのです。

今や若い女性にも、希薄になった“可憐”さを、

同世代のおばさん達には、是非抱き続けてもらいたい

と私は思うのです。

今君たちおばさんが、若いもんに

真の可憐さを示さなくては、

その神秘的な力が、

この世から消えてしまう

かもしれないぞ〜!!

立ち上がれ!真の可憐さを知る愛すべきおばさん達!

 

-------------------2002年1月26日--------------------

成熟した大人になる前の女性に、

“可憐”という表現をすることがある。

あるいは、花にもよくこの表現をつかう。

私のとても好きな言葉のひとつ。

世阿弥の花伝書でいう“若い時の花”は、

“可憐”と言って、言い尽くせるのではないか。

花伝書では、

若い頃の花はほんとの“花”と言えないみたいに書いてある。

しかし、この可憐さに“花”の“花”たるものが

秘められてるような気がする。そして、

成熟した者も、この可憐さをもたぬ者は好かれない。

人に好かれないばかりか、幸運の女神にも好かれない

と私は思う。

 

美しく成熟しようとする女性たちに、是非言いたい。

いつも心にクラリスをもて!

クラリスとは、有名ソフトメーカーのことではない。

あの名作アニメ “ルパン三世 カリオストロの城”のヒロインの名だ。

アニメ史上最も可憐なヒロインと言われているクラリス。

“千と千尋の神隠し”がいかに史上最高のヒットであろうと、

おじさんにとって、クラリスほどの可憐さは存在しない。

そう、

同世代のおじさんの心には

  いつもクラリスがいるのだ。

果たしてこの可憐さとは

どこからやって来て、どこへ消えてしまうのだろうか。

クラリスの言動に胸をキュンとさせた一青年の心は、

今、凍えて震えている。クラリスよ再び!

 

-------------------2002年1月25日--------------------

マクロな宇宙が、ミクロな原子構造と似てるように、

死は眠りと似ていると思う。

心配を抱えたまま、眠ると悪い夢を見たりする。

人生を十分満喫して死にたいものだ。

そして再び悲しみと喜びの混然とした

この地球人の人生に帰ってきたいものだ。

-------------------2002年1月24日--------------------

昆虫→手塚治虫→息子の虫嫌いときたので、

今日は、男と女の話。

なんでじゃい!と言われようが、男と女。

男と女を陰陽で、分けるなら、

どうしても女が陽で、男が陰だろう。

原子なら、原子核が女で、電子が男。

太陽系なら、太陽が女で惑星が男。

男はいっつも女の廻りを、せかせか走り回ってる。

そう思う。

けれど、

完全にくっついてしまったら、どちらも消滅してしまう関係。

それが男と女。

引力と抗力と運動とエネルギーと、いろんなものがバランスして

あやうく成立してる宇宙と似てる。

たいがいの原子に寿命が決まってるように、

男と女の関係も、たいがい寿命が決まっているのだろう。

別れるべくして、必ず別れが来る。

死 だったり、わがまま だったり、欲望 だったり 制度 だったり。

しかし、

強烈な男女の絆はまた、一個体の生命の境界を

飛び越えて、関係を保つ場合があるようだ。

純愛ドラマとかに、よくあるよね。

“今度生まれ変わったら……”

たしか、松田聖子も言ってたような…

それは、結構冗談にしちゃ、あまりに多くの人に

言われた続けた言葉なのです。

とくに血なまぐさい戦いの世には。

またいつか違う“生”で会おう!

と。

 

 -------------------2002年1月23日--------------------

昆虫→手塚治虫ときたので、今日は何を考えようかと

頭をめぐらせば、うちの息子が思い当たる。

うちの息子:蒔人は、現在小学2年生だ。

彼は、もっと以前からとても虫嫌いである。

娘:紗帆(小学4年)は蠅も手づかみするほどの豪傑だが、

蒔人は、非常に小さな虫を怖がる。

幼児体験において強い嫌悪を感じていないとしたら、

いったい何において、小さな虫を怖がる必要があろうか。

その理由はやはり、前世の記憶に求めるしかないように

思われてくる。前世の非常に衝撃的な出来事が、この恐れに

関連しているとしか思えない。すぐ前の過去生でないにしても

何代か前の過去生において、個体の生命を超えて記憶されるような

忌わしい事件を経験したのだろう。

人はそういった多く記憶に縛られている場合が多い。

なにかに漠然とした恐怖を感じているとしたら、

まずそういった過去生の記憶ではなかろうか。

人が生きる課題のひとつに、この恐怖から解放されることがあると思う。

この生においてその恐怖から解放されなければ、

次ぎの生、また次ぎの生へと恐怖が受け継がれてしまう。

この解放を実現するものは、少しずつ、あるいは突然、

世の中の“理”を知っていくことだと思う。一生かけてもだ。

そのほかのことは、ほとんどが人生にとって

雑務ではあるのだが、その雑務ができない人はたいがい無能という

レッテルを貼られるから、雑務もそこそこやらなければいけない。

もしかしたら、その雑務にこそ真理が潜んでいる場合もあるのだ。

だから盲目なわれらは、目の前にあることに正面から関係していかなければ、

真理に繋がるの節穴を見過ごしてしまうのだ。

ほとんど万人が、恐怖に思っている“死”や“病”からも解放される

節穴があるとしたら、なんとしても見のがしたくないでしょ。

 

これだけは言えると思う。

その真理の節穴は、決して盲目的な信仰の塔には存在しない!

むしろ汚れた長い壁の、単調な壁拭きの中に、

発見できるようなものだと私は思う。

 

 -------------------2002年1月22日--------------------

きのうは昆虫考だったが、今日は手塚治虫考。

 手塚治虫は、その名に“虫”を使ってるように

大の昆虫好きだったにちがいない。

また

先日放映の、戦時中の宝塚歌劇団の奮闘記みたいなテレビドラマにも

少年期の手塚治虫が出ていたが、

少年手塚は大の宝塚ファンだったようだ。

また、いわずもがなでロボット好き。

それに獅子や狼などの野獣への興味。

それらに共通するイメージは『異化』である。

美しい女性が、逞しい男性になること。

ロボットが人間の脳をもつこと。

あるいは人間がロボット化すること。

人間が野獣に変化してしまうこと。

あるいは野獣が人間化すること。

そして、昆虫の幼虫が、蛹となり、そして羽化すること。

それらはすべて、ひとつ事象が、別のものになってしまうという異化現象。

この現象が手塚治虫の情熱をかき立てたのは、

そこに見えかくれする真理があったからに違いない。

異化が示す真理とは、どんなものか?

私はそれは、“生き死にの連鎖”

“輪廻転生”のミニチュアモデルがそこにあるからだと思う。

そもそも生物が生きていくことは、代謝活動であり、代謝とは

古い細胞が死に、新しい細胞が生まれるということに他ならない。

昆虫の一個体の死は、その昆虫の集団の魂にとって

一細胞が死ぬということにすぎないのかも知れない。

そんな一連の現象を鳥瞰すると、

すべてものは、同じように連鎖しているのが感じられる。

しかし、

あるものが、別のものに生まれ変わる時、

なんらかのエネルギーや、

なんらかの意志を感じずにはいられない。

手塚治虫のライフワーク“火の鳥”は、

そういったエネルギー意志との

友好的な対話だったとように思われる。

 

-------------------2002年1月21日--------------------

サーバーの移動が本日ありましたが、無事終わりました。

 

いまチラッと見たテレビで、昆虫のすごさみたいなテーマで番組をやっていた。

それでなんか突然思ったのですが、

昆虫の個体ひとつひとつに魂があると考えるより、

むしろ

昆虫の集団や群れを包み込むような霊的な存在が、

あるのではないか?ということが、頭に浮かんだのだ。

それを特に感じるのは、昆虫が自己犠牲的な行動をして

群れを救うことがよく観察されるから。

個々の魂は、おそらくはそうは働かないだろう。

 

昆虫は、生物学的には、ほ乳類の対極にある。

そして、しかも神秘的な観点から見ても対極にあると感じたのだ。

進化の過程において

ほ乳類は、個における魂の発達を望んだ。

一方、

昆虫は、おそらく個を捨て、集団としての魂を求めたのだ。

昆虫の行動は、脳によって統率されているというより、

条件反射的に動いている。それだからこそ美しい。

実存に悩む蝶の飛ぶ姿が、果たして美しいだろうか。

もし昆虫に、個の魂があって、その魂が、

一層包括的なその集団の魂を感じたのなら、

その魂を守護神の声ように感じるだろう。

人間も

個の欲望から離れ、個を脱却すれば、阿弥陀様や観音様の声を

自分の声のように聞く事ができるかもしれない。

昆虫よりも人間が、尊いというのことは決してない。

『一寸の虫にも五分の魂』という言葉がありますが、

意味が逆なのかもしれないと思うのです。

『一寸の虫には一分の魂もないからこそ、いっそう尊い』

と言うことができるかもしれないのです。

道家によれば、

ほんとの聖人は一見たいへん愚かに見えるそうだ。

 

さて、

『贈答品について』 『MEDIAでの紹介』を更新しました。

 

 

-------------------2002年1月19日--------------------

トップの写真を変えてみました。

いつまでもお正月気分ではいけません。

かといって、いきなりあまり渋いのもどうかと、

益子の有名陶芸家 肥沼美智雄さんの

ちょっとチャメッケある大黒様にしてみました。

 

そういえば宝船の七福神って

なんか、大陸の文化を運んで、富みをもたらしてくれる

渡来人のイメージがあると思いませんか。

 

でも、せちがらいこの日本では今、中国をはじめ

アジアの諸国に経済的にはとても圧迫されています。

“日本に負けるな!追い越せ!”っていう気持ちが成果となって着実に

顕われてきています。高度成長期の日本の対アメリカ意識と同じ。

けれどいつまでも、追い越せ追いつけのレースにはキリがありません。

よくイギリスは斜陽の国なんて呼ばれますが、それは

成り上がりのアメリカや日本の思い上がりで、イギリスは

とても大人な国だし、今も文化は一流だと思います。

日本も経済のチキチキマシンレースから降りて、

とりあえず、まあ、囲碁でもやりましょう、お茶でも飲みながら。

それと、やっぱりメシは粗食ですぞ、健康のためにも。

例外的にうつわは、いいものを使いましょう!

焼き物を愛する者に幸あれ!自分勝手と言われても。

 

 

-------------------2002年1月17日--------------------

新規入荷品のページを更新しました。

作品の大きさの目安のために

かばさし登場させました。

生では食べられません。念のため。

作家別ギャラリーもリニューアルしてま〜す。

 

-------------------2002年1月16日--------------------

今夜子供といっしょに『ヒカルの碁』というアニメをテレビで見た。

今日で二回目であるが、なかなかよく出来ている。

今、小中学校ではこのアニメのおかげで碁が大流行らしい。

囲碁は、ゲームというよりも本来、

宇宙を記述する試みそのものだったみたいです。

占星術とか八卦とか亀甲占いに近いものだったみたいです。

言うなれば

偶然性を神秘的手法でシステマチックに構築していく試み。

大宇宙の秘密が、おのれ自身にあるという思想か?

陰陽のバランス、それとも磁場か?愛か?ブラックホールかビッグバンか?

 

かく言う私 ぜんぜん囲碁なるもの できません。

誰かおもしろおかしく囲碁を教授してくれないものだろうか。

へたな考え休むに似たり

とは、囲碁の格言のようです。

あれやこれやと悩んでるより、上手に習え、真似ろということらしいです。

この格言、どこの世界でも同じですね。むろん陶芸もまさにこれ。

 

-------------------2002年1月15日--------------------

かさねて陶芸チャリティ展示会をよろしくお願いします。

箸置きのことなどについてよく説明している

サイトがあったので紹介します。

http://member.nifty.ne.jp/manner/6shou/18setu.html#k17

ほんとの茶会では箸置きが使われなかったようですから、

逆にもっとくだけたおもてなしの席で、重宝されたのでしょう。

箸置きコレクターというのも大勢いらっしゃるみたいです。

http://planning.helper.to/collection1.htm

http://ine.cool.ne.jp/hashioki.html

http://homepage2.nifty.com/jeanpaul/cl001.html

http://homepage1.nifty.com/aburae-nyuumon/hashioki.htm

箸置きというものが、日本文化のひとしずくで

あることは間違いないことだと思います。

よく中学卒業のときとか、

学校の主催でテーブルマナーを教える課外教室みたいのがあったけど、

そういう趣向で、成人の日には、茶会はともかく

懐石料理など日本料理の作法を教わったりするのはどうでしょうか。

せっかく綺麗な着物を着るのだから…

 

-------------------2002年1月14日--------------------

陶芸チャリティ展示会の募集要項を掲載しました。

みなさんの積極的な出品参加と、積極的な購買を何卒よろしくお願いします。

 

さて、

三日ばかり前から『エレガントな宇宙』っていうサイエンス本を読み始めた。

量子力学と相対性理論を統合する“超ひも理論を”やさしく大衆に教えてくれる。

わたしはすごく読んでいて楽しいが、興味のない人にはまったく面白くないと思うので

積極的にみんなにはお勧めしないが、とりあえず全米ではベストセラ−のようだ。

こういうマクロ(宇宙)とミクロ(素粒子)を扱う最先端の本を読むと

いかに世の中の根源的な性格が、“疎”であるかを知る。

世の中で強靱で堅固であると思われている物体の本質は、きわめて隙間だらけの

疎!疎!疎!疎!なのである。

科学の進歩で最小の粒子が解明されるたびに、その粒の中身が実に“疎”であるかが

明らかになっていく。

道家は、疎は道なりと言うかもしれない。

仏教は、疎は空なりと言うかもしれない。

今、最先端の科学者は、疎は力なりと言ってるようだ。

 

以前もこの疎に関して、うつわと建築にからめて、

この日々でんに書いたことがあるのを思い出して、

『うつわのこと』というページに再記したので、読んでみて下さい。

 

 

-------------------2002年1月12日--------------------

突然ですが『いつもお兄ちゃんがいた』は泣けます。

表紙も訳も素敵だし、私はまったくの実話と信じてしまった。

両親を失った不幸な三人兄妹弟の一番上のしっかりものの

お兄ちゃんが死んでしまうところから話しは始まる。

お察しのとおり、“ぽっぽや”よろしく

死んだおにいちゃんが残された二人の幼い妹弟を助けるストーリー。

私はこういう霊的なのにすこぶる弱い。

だからといって、日常的によく霊を見る訳じゃないけど

その存在は確信している。

霊を感じて、背筋が寒くなる経験をしたことは誰でもあるでしょう。

私はその感覚を、“真理を垣間見る”感じだと思っている。

アートに心を熱くするのと同時に、背中から脳天にかけてクールな電流が

走るのを経験する人も多いだろう。

その感覚と“霊を感じる”のはまったく同じ現象のような気がするのだ。

はからずも真実を見てしまったのだ!

と私は常々思っている。

みなさんはどう思われますか。

 

-------------------2002年1月11日--------------------

みごと正月の今日までの間で、2度風邪をひき直しました。

子供たちといっしょにすっかり体調不良です。

そんな中、妻のdenden(店長)だけが気を吐いております。

ゴォ〜ガァ〜ッ

さすが我が家のカナメ、大黒柱であります。

さて、

その大黒柱さまと今夜お話をしたのですが、

昨年春、大勢の皆さんの協力をもって成功できましたチャリティ陶芸展示会のこと。

クリックすると去年の参加作品↑

有志が気持ち良く参加でき、しかもあまり負担にならず、

主催者側もあまり鼻息荒くならないよう、いろいろと話を煮詰めました。

その詳細は、可及的すみやかに発表するとして、

今日は出品作品のテーマだけお知らせします。

ずばり“箸置5個セット”です。

創意工夫とセンス溢れる“箸置”を期待してます。

出品作は参加者に無償で提供していただき、

売り上げをユニセフに寄付します。

http://www.unicef.or.jp/

 

箸を置くこころやゆとりを大切にしたい。

そんな気持ち集い集めてチャリティに!

4月に展示予定です。

 

-------------------2002年1月8日--------------------

あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。

さて

正月2日から熱が出た。

あまりおめでたいことでない。

しかも、妻の実家でである。

義兄家族も、義父母もいる正月に

ひとり布団に寝ているのは結構つらい。

つらいはつらいが、唸るほどの高熱でもないので、

すこし本を読んでいたら、悦に入った。

熱で朦朧とした頭に、“老子と道教”という本は

快く、古代人の静寂かつ激動の思念に舌を巻く。

人はやっぱり宇宙と一体となるような忘我によってしか

進むべき方向をしらないのだろう。

宇宙が三次元でなく、多数のひもの束のように

何十次元でもあるのなら(元旦の新聞に出てた)

今年はきっとそのたくさんのひもが、

絡まって、ねじれ、結束して、団子のように

大きく固まって、次元同志が混然として交流する

ような前代未聞の年に違いない。

だからといって

行く道を見間違わないようにしようと、

精神と五感を極度に緊張させたりしてはいけない。

身と心は、こんな時こそ剛にしてはいけないと思う。

柔らかくたもつことこそ、この戦国の世を生きぬく処方だろう。

ということで、

でんチャンの今年の座右の銘は

“抱一”

一を抱く。

この場合の一は、道家での“道”のこと。

宇宙全体の根源でかつ全体みたいなもんだろうな。

対立するものをもたない精神。偏見のない眼識。

 

 過去のでんチャン2001年12月に行くの?

過去のでんチャン2001年11月に行くの?

過去のでんチャン2001年10月に行けば?

過去のでんチャン2001年9月に行くん? 

過去のでんちゃん2001年8月へ行くう?

過去のでんチャン2001年7月を行くか?